自動チェス人形事件 壱

進路希望調査。怪盗にとって、これほど意味の無い紙切れはこの世に存在しない。
東雲 宵一、当時高校生。趣味は機械いじり、現役で駆け出しの怪盗。志望校や将来の夢を語る学友たちを尻目に、彼一人悩むことも、白紙を恥じることもなくただ溜息だけをそこに残した。
怪盗になってそこそこの日が経つが、これ以上にスリルのある事も面白いと感じる事もきっとないだろうと思う。故に、東雲は既に進路を確固として決めていた。このまま進学してしまえば活動時間が限られる。そうなると警察に学生である事がバレる危険性だってある。何よりも、この面白いことに費やせる時間がもっともっと欲しかった。
だから東雲は進路希望調査表に学校の名前も、なりたい職業なんてものも書かない。ただ、何も書かないのは後で教師に咎められると知っていたから今は代案を考えている最中だ。
にしても、どうして進路希望調査表には三つも枠があるのだろう。三つを迷いなく埋める事のできる人間なんて、それはそれですごいと思うのだが。
「東雲!おい、東雲!」
「んあ?」
教師に何も言われない範囲内での模範解答を模索していると、誰かが東雲の肩を激しく揺さぶった。クラスメイトの男がやっと反応した東雲の肩を叩く。やめろ、と払いのければ男は調子よく笑った。
「今日の夜、中島ん家に集まるんだよ。ゲームしてそんまま泊まるつもりなんだけど、お前も来るか?」
「あー……」
だらしなく口を開く。他人に対していい態度を取っていないにもかかわらず、こうして誘ってくれる友人の有り難さときたら。東雲はなんとなく、卒業してからのことを思った。卒業して怪盗に専念していれば、きっとこいつらと会うことは殆どなくなるだろう。学生生活も悪くはなかった。クラスメイトをつまらないとかお節介だとか、そういうのも特にない。寧ろ、東雲はクラスメイトの大半を嫌っていない。いや、厳密には興味がないのだが、それでも東雲をしつこく誘い、昼食を共にとってくれる学友を有り難いとは思う。そつなくこの学生生活を終えるためには、やはりどうしても平凡な友人たちが必要なのだ。
だがそれも卒業までの話。きっと会わなくなる。遊ぶなら、今のうちなんだろう。
思うも東雲の答えは決まっていた。今夜ばかりはどうしても外せない用事がある。
「悪い。用事があるんだ」
そう、今夜ばかりは。これから楽しみで仕方ない時間が待っているのだから。


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東雲がそれを知ったのは、つい先週のことだった。ネットのSNSで話題になり、ニュースに取り上げられ、誰もがそれの存在を目に留めている人形がある。それもただの人形ではない、自動でチェスを打てる人形だ。仕組みや詳細は不明ながら、それをたった一人の老人が長い年月をかけて作ったというのだから面白い。怪盗たちは、誰もがその人形を狙っていた。大抵の怪盗が求めるものは、価値のあるものだ。決して値段ではない、希少価値やドラマ性の高いものを欲する。勿論東雲もその一人だった。……が、東雲が自動チェス人形を狙う理由は希少価値や老人の苦労を描くドラマ性にはなかった。
少し前から話題になり始めていた自動チェス人形を狙い、数人の怪盗が老人の屋敷に入り込んだらしい。しかし入り込んだ怪盗たちは、一人残らず何者かの手によって確保されている。老人はインタビューを受け、全国配信されているニュースで高らかに言った。
盗めるものなら盗んでみろ、と。
「そんなこと言われたらやるっきゃねえよなぁ」
東雲の野心に火が付いた。一体どんなカラクリが待っているのか、今から楽しみで仕方ない。東雲は今頃ゲームに勤しんでいるであろう友人たちをふと思い出しながら、夜道を駆けた。友人たちと自分の道が違うことを寂しいとは思わない。自分の存在を特別だとは思わないが、だからこそ怪盗である時は特別であるという悦に浸れて心底愉しい。これを間違っていると誰かが批判するなら、それも良かった。それでも東雲は怪盗であることをこの先やめないし、何より今となってはそれをとってしまえば他に何もなくなるという自覚がある。
丁度、東雲にとってのターニングポイントだった。今、怪盗を辞めて真っ当に生きることを決意したなら間に合うのだろう。しかしこのまま怪盗を続けて高校を卒業してしまえば、引き返せなくなってしまう。
自分でもよくわかっている。わかった上で、東雲はやはり怪盗であることを選んだ。
「なんだよ、警備ガバガバじゃねえか」
老人の住む屋敷の隣まで来て、東雲は身を隠した。
正面入り口に警備と思しき男が二人。それ以外は何も見えない。一応罠や警報機がないか確認するが、どれも余裕で抜けられそうなものしかなかった。東雲は落胆する。怪盗が何人も捕まったなんてただのデマなんじゃないか、と。それとも中にすごい仕掛けでもあるのか。どちらにせよ、今日は負ける気がしなかった。東雲は軽く肩を回して意気込むと同時に、屋敷の屋根へと登った。小さな小窓のある部屋を覗くが、誰もいない。音もなく窓に小さな穴を開ける。これも東雲が作った、命名「楽チン鍵開けまるまるくん」である。鍵のそばに小さな丸い穴を開け、そこから手を入れて鍵を開ける……と、それだけの機械なのだが。
「おじゃましま~す」
なんて、悠長に声を出してみる。が、警備どころか人っ子一人東雲を阻もうとする者は現れなかった。警戒を怠らずに、そのまま廊下へ出る。やたらと長い廊下には幾つもの部屋や階段があり、一体どれが正解の扉か見当もつかない。……わけがなかった。東雲はゴーグルを取り出し装着すると、横に取り付けられた小さなボタンを押す。命名「ゼンブミエール三号機」。扉の向こう側まで機械が熱感知や様々なギミックを使い一瞬で何があるか把握できるようになる優れものだ。
ゴーグル越しに部屋中が丸見えになる。しかし、それらしきものは見つからない。東雲はゴーグルを頭にずり上げると溜息を吐いて階段を探した。上に大きな空間がないところを見ると、地下だろうか。音を立てないように階段を下り、更に下り、東雲は誰もいない屋敷の中を探索した。そう、誰もいない。あまりに静かすぎることが、逆に警戒心を煽る。
東雲は、息を呑んだ。今更誰一人としてこの屋敷から人形を盗めていないという事実が緊張を生んだ。いつも通りにやれば大丈夫だと思いながらも、進む足がだんだん重くなっていく。
ようやく一階に辿り着いたところで、もう一度ゴーグルを装着する。一階のど真ん中に、地下に繋がる階段が見えた。東雲はもう一度考えた。ここで引き返せばまだ間に合うのだと。しかしそれ以上に、この先にあるものへの好奇心が止まらない。それは人形に対して……ではなく。幾多の怪盗を捕まえた「何か」に対して。
東雲はゆっくりとリビングに繋がるドアを開けた。階段が見えた床の上に立つと、僅かに隙間風を感じる。そこに爪を立てれば、隠し階段を閉ざした蓋はいとも簡単に開いてしまった。
迷わず降りる。自前のマントを翻しながら、軽やかに階段を駆け下りる。すぐに広い空間へと到達し、東雲は何の苦労もなくそれを目撃した。
自動チェス人形。
人を象りながらも、顔は描かれていない。小さなテーブルにあるチェス盤を見つめるようにして椅子に座らされたそれは、まるで陶器のような素材で出来ていた。白くてツルツルとした表面に、無機質過ぎる風貌がなんとも言えない恐怖を掻き立てる。
東雲は警戒しながら部屋を見渡した。特に矢が飛んできそうな小さな穴もなければ、落とし穴がありそうな床もなく。ガスが噴射されそうな壁もなければ、檻が降ってきそうな天井でもない。
部屋に不審なところが、全くない。
ならば、怪盗たちは何処へ行ってしまったというのか。
考えながらも東雲は人形と対峙した。人形は喋りも動きもしない。
「……。どうやって持って帰るかな、これ」
指先で人形に触れてみる。やはり人形は喋りも動きもしない。
東雲はその様子をじっと見てから、人形の頭を掴んだ。そして勢い良くそれを引き抜く。ブチッ、と何かが切れる音。そして千切れた配線を首から覗かせながら、人形の頭はすんなり東雲の手に収まる。
「ま、取り敢えずこれだけ持って帰るか」
頭を脇に抱えて、東雲はもう一度部屋を見渡す。天井近くに配置された通気口は、ギリギリ東雲が入れるサイズ感だ。その場で高く跳んで通気口を塞いでいる格子を掴む。が、中々取れる気配がないので一度諦めてポケットを弄る。「どこでも便利ロープくん」、いろいろな場所にロープを引っ掛けることができる優れものである。勢い良くどこでも便利ロープくんを投げ付けると、先についたフックが格子に引っかかった。力強くそれを引けば、格子が取れて床に落ちる。もう一度高く跳んだ東雲は軽々と通気口に身体を滑り込ませ、そのまま狭く暗い通気口の中を這いずって行った。
やはり何もなかった。怪盗たちが帰ってこれなかったという情報自体がデマだったのか、それとも今日はたまたま屋敷の休日だったのか。人形の頭を抱えたまま、東雲は思う。どうも手ごたえがない。このまま持ち帰れるならそれはそれでいいのだが、しかし本当にこんなものなのか。考えながら進んで行くと、また別の部屋に出た。部屋にある階段を登れば、今度は一階の風呂場に出る。
考えても仕方がない。今はこのまま撤退して、明日提出する進路希望調査に書く嘘でも考えておこう。
ツルツルとした頭を撫でて風呂場を抜ける。少し前に通った廊下を歩いて、何処から出ようか迷っているその時。東雲は足を止めた。玄関の方から、忙しない足音が聞こえたのだ。それも一つではない。耳を傾ければ傾けるほど、足音の数が多くなっていく。
監視カメラを見逃していたのか、センサーか何かあったのか。いや、そんなものなかったはずだ。それなら屋敷の住人が帰ってきたのだろうか。それにしては足音の数が多すぎやしないか。考えた挙句、東雲は自分が侵入した部屋がある三階まで駆け上がった。侵入した場所から逃げれば玄関側から丸見えになってしまう。故に、裏口側に出られる窓を探しに、だ。東雲はゴーグルを起動させ、それらしい窓や出口を探す。しかし東雲が入った窓以外、すべて小さすぎるか位置が高すぎるか…どれも抜けられなさそうなものばかりだ。小さく舌打ちをした東雲の心情はあまり良くなかった。人形を盗むに至れなかった怪盗たちの事を思うと冷や汗が浮かぶ。いつもならこのくらい大したことではないと思うのに、疑念や不安が次々に浮かんでは東雲の中に沈んでいく。
一度、落ち着かなければ。
思って端にある部屋の扉を開ける。と同時にそれは目に入ってきた。
やたらと大きなダクトへの入り口が。東雲は間髪入れずにダクトへ潜り込む。足音が近付いてくるのを感じながら、急いで進む。どうか外に繋がっているようにと願いながら進んでいると、急にダクトが途切れ、真っ逆さまに落ちる。東雲はなんとか態勢を整えて、地面とぶつかる準備をした。それと殆ど同時に東雲の身体と地面がぶつかる。ダクトの外に放り出された東雲は、呻き声を上げながらなんとか立ち上がろうと膝をついた。
「いってえ…………」
どうやら、屋敷の玄関とは裏側に出たらしい。そして違和感を覚える。あまりにも侵入しやすすぎる窓に、わかりやすい地下への道。そしてどうぞ外へお逃げくださいと言わんばかりのダクト。あまりにも、出来すぎた流れ。偶然のように見えて、幸運が過ぎると思い知らされる。
背中を這い上がるような悪寒に、すぐさま立ち上がった。しかし、東雲の動きは明る過ぎる無数のライトに照らされて止まる。
「…………逃げるところまでシナリオ通りってか、面白くねえな!」
そこに立ちはだかる幾多の警備員と、その真ん中に立つ老人。東雲はそれらを見て、渡すまいと人形の頭を抱き締めた。