そこに乗せたのは怒りではなかった。ただ純粋に勝ちたいという気持ち。
明乃の鋭い眼光がそのまま突き刺さったかのようだった。
立ち上がった明乃の一撃に、怯んでいた常盤が吹き飛ぶ。衝撃で天井がまた少し崩れ、爆音となって辺りに轟いた。
猫猫事件帖 新章
最終話
「彰ちゃん」
差し伸べられた手に、困惑する。
彼女はどうしてここまで真っ直ぐでいられるのかと、問いかけたくなる。
何が彼女をそうさせたのか。どうしてこんなにも純粋でいられるのか。
黒堂 彰の思考は半ば停止していた。その手を取ったらどうなるのか、確かめたくて仕方がない好奇心もあった。しかし何故か取れずにいる。何故と問おうとすると、心の奥底が軋んで悲鳴を上げるような痛みが走る。
「……」
呆然とする少女を気にせず、木野宮は手を差し伸べ続けた。
しかしその手を切り裂くかのような轟音が響く。一同は反対側のホールに振り返った。音が耳に届いたのか、何人かの警備員が唸りながら起き上がろうとしている。
「まずいな」
壱川が呟く。東雲たちに何かあったのかもしれない。察して水守が走り出した。壱川もそれに続く。
宮山が木野宮を見ると、木野宮は力強く頷いてもう一度少女の方を見た。
「行こう!彰ちゃん!」
眩暈がするようであった。なんとか現実に自我を引き寄せて、少女は常盤に連絡を図る。見物に来ると言っていたから、いつも付けている通信機を耳に当てがう。しかし何も聞こえない。雑音すら拾えない。先ほどの音の中で、何かがあったのだろうと察することができた。何故だか胸騒ぎがする。こういう時に限って、勘というのは当たるものだ。
木野宮を見る。彼女の目は曇りなく、少女が手を取るのを待っていた。
選ばなければいけない。今。
少女はそれに気付かながら、静かに考える。何故その手を取れないのか。好奇心で取ってしまえばいい。つまらなければまた捨てればいい。そう思うのにとれないのは、あの男が頭の隅にいるからだろうか。
何故あの男が頭の隅にいるのだろう。制裁が怖い?いいやそんなことはない。それこそ受けて立ってもいいくらいだ。
何故。
何故。
少女は幾つもの思考を張り巡らせた。数ある要因を推測しては消していく。繰り返していくうちに、答えは嫌でも見えてくる。
考えるなど警鐘がなる。しかし考えるのをやめるわけにはいかない。ここで選ばなければいけないと、わかっているからだ。
そして少女はようやく気付く。漠然と思っていたことを思い浮かべると、腑に落ちてしまった。
ひとつひとつのことを思い返すうちに。ひとつひとつのことを考え直すうちに。
あの日、泣きそうになりながら常盤 社に縋った自分の感情に、嘘をつけていない。
あの時、祈りに似た形で彼に憧れたその気持ちを、捨てきれていない。
それは、かけがえのない思い出のようで、しかし今も尚少女がここに居る理由。少女がマントを纏い、探偵に立ちはだかる理由。止まれずにはいられない原因でもあり、暗がりに引きずり込まれた要因でもある。
彼は最初から遠かった。並べてなどいなかった。今も、彼に追いつく事はできていないだろう。彼が見ている世界と、自分が見ている世界は程遠いのだろう。
しかし追いつく事を諦めたのは、他の誰でもない少女自身であったのではないか。彼の安否が気になってしまうのは、彼にまだ期待を寄せているからではないか。
少女は気付いた。諦めていたことに。受け入れていなかったことに。自分が如何に小さい人間であったかということに。
そうすると話は早い。だって受け入れればいいだけの話なのだから。しかし少女は下手くそな笑みしか浮かべられなかった。木野宮のようになりたくないと言えば嘘になる。彼女のように、普通の幸せを感じて生きてみたかった自分もいた。ただ普通に生きていけたらと、何も知らずにいられたらと思っている自分もいた。
だけどそうじゃないだろう。目指した場所には、まだ全然届いてなんていないのに。
少女は木野宮の手を払いのけた。木野宮がぽかんとしているうちに、彼女の内なる熱が蘇ったかのように感じる。
「ごめんね」
そこにあるのは、穏やかな微笑みだった。張り付けたような笑みでも、取り繕ったような顔でもない。
「ありがとう。本当に、嬉しかったよ」
そう言って少女はマントを翻す。途端に姿が消えたのを見て宮山は口を開けるしかなかった。しかしすぐに思考が戻り木野宮を呼べば、彼女もまた続いて走り出した。
そこに、ダイヤのネックレスを残して。
***
瓦礫から這い上がりながら、常盤はやはり服に付着した埃を払った。そもそも、天井に小さな穴を開けるだけのつもりだったというのに、思いの外爆発が大きかったことが遺憾だ。あの小型爆弾を作る時に考え事をしていたからだろうか。それとも運命の悪戯という奴なのか。溜息を吐きながら立ち上がると、少し離れた場所から人の気配がした。
あの怪盗たちが追ってきているのだろう。騒ぎに気付いて人が集まってくるのも時間の問題だ。
冷静に状況を把握しながらも、明乃の一撃に身体が相当な深手を負っていることがわかる。しかしやはり致命傷が避けられているのは、あの怪盗の教えからであろうか。
よろめく身体をなんとか動かしながら、常盤は思う。
彼女は選択できたのだろうか。
今度は自分で、自分の道を。きちんと欲しいものがわかっただろうか。それとも、まだわからずにいるだろうか。
どっちでも良かった。興味がない、という意味ではない。人が選択をしたのなら、それを否定する権利など誰も持ち合わせていないと考えているからだ。
だからこそルールがいる。何もかもを尊重していては、全てが崩壊するからだ。
「ついてませんね」
呟きながら、遠くに聞こえるパトカーのサイレンに目を細める。まさかここで捕まるようなヘマはしないつもりだが、しかしそれが至難の業であることも理解できる。
こんな時に、彼らのように相棒という存在がいれば楽なのだろうか。怪盗団の人間は皆自分にとっての仲間だ。いや、秩序を守っているのなら世の怪盗全てがそうだと言ってもいい。だが彼らはそれとは違った形の絆を築いているようにも思う。
常盤が再びよろめく。意識はハッキリしているのに、身体が言う事を聞かないのだ。ここで倒れてはいけない。そんな事はわかっているのに、地面が近付いていく。
しかし、身体と地面がぶつかる事はなかった。視界に映る鮮烈な赤は、あの日に渡した指輪に嵌められた宝石と同じ色だ。どうしてこのマントの裏側を赤色に染めたのかは忘れたが、しかしその色を見るとあの夜を思い出す。常盤は微笑んだ。
「愚かな選択だ。だけど貴女は選んだのですね」
彼の肩を支えながら、少女は真っ直ぐに前を向いていた。まるで出会った日のような瞳を携えて。
「最初から選んでたよ。最初から選んでた。私は貴方についていく」
あの日に、確かに救われたから。まだ、この先が見たいから。言わずとも、少女、黒堂 彰の目はそう語っていた。
彼女は不敵にも笑う。いつも通り挑発的で、いつも通り何処か子供っぽい笑みだ。
「ねえ、こんなものじゃないんでしょ?もっと見せてよ、いろんなもの。……社さん」
これもまた、ひとつの選択なら。それを受け入れる。それだけだ。そう思って、常盤 社は目を瞑る。
「勿論ですよ。世界は貴女が思うより、ずっと面白いものだ」
そうして二人の怪盗は、誰にも知られず夜闇に消えて行った。
***
「……まあ、なんだ」
不器用にも宮山は木野宮の頭に手を置いてみた。撫でるまではしてやらなくてもいいだろうと思う。
しかしこの状況、非常に簡潔に述べるなら、木野宮は友達になろう!という誘いを断られた可哀想な子とも取れる。木野宮は阿呆だから、そう思ってる可能性も十分ある。
何か言ってやらねば。思いながらも友達が少ない宮山にとって、こんな状況はあり得ない。故に、なんと言えばいいのかわからずにいる。
「……いつか友達になれるさ」
下手くそか。自分でもツッコミを入れてしまうくらいには下手くそだ。宮山は勝手に落ち込みながら、木野宮の顔を覗き見てみる。
彼女はいつも通りだった。子供っぽくて、明るい笑顔が満開だ。
宮山は一安心しながらも、肩の力を抜いた。
「もう友達だよ」
木野宮が言う。嗚呼、成る程そういうことか。妙に納得して、帰路に着くことを促す。事情聴取されたいと喚く木野宮を無理矢理連れながら、早く靴を脱いでソファに寝転がりたいと願った。
事情聴取なら、本職の刑事さんがやってくれるさ。だから今は帰って、好きなものでも食べようか。
宮山が言うと、木野宮のカツ丼!と言う声が夜の街に響き渡った。
***
「はい!宵一さん、あーん!」
「自分で食えるっつーの!ていうかなんでゴリラの形なんだよ!食いづれえわ!ていうか器用だなお前!」
「練習したからね~!あ!マヌルネコも作れるよう!」
「作らなくていい!」
とある街のとある病院、とある一室にて。
事件に巻き込まれたとして壱川によって処理された東雲は、現在入院中である。
自室だけは触るなと何度も明乃に言い聞かせているが、明乃のことだからこれを機にぴかぴかに掃除していることだろう。早く帰りたくて仕方がない。
意識を失ってから回復するまでは明乃が泣きっぱなしで大変だったと壱川と水守からの報告を受けているから、後で二人に面倒を見てくれた礼もしなければならないだろう。試作機でもやるか、と考えながら東雲は真っ二つになったゴリラ型に剥かれたリンゴを頬張った。
「結局逃げられるしよ。ついてねえなあ、本当に」
「でも宵一さんが無事で私は良かったよ!えへへ、帰ったらお肉パーティしようね」
穏やかに笑う明乃を見ながら、東雲は考える。
結局何も片付いてなどいないじゃないか。あの男は何者なのか、これからも狙われ続けるのか。考えなければいけないことは山ほどある。
しかし今は、こうして日常に帰っておこう。また来るべき日に備えて、今度は何を開発しようかと思いながら、東雲は林檎をもう一度頬張った。
***
「で、結局何にも解決してないわけなんだけど」
「まあ、そうなるねえ」
「結局!何にも!解決してないわけなんだけど!」
机を叩く水守を宥めながら、壱川は手に持った缶ビールを口にした。机と椅子、テレビ。他に目立つものが置かれていない殺風景なリビングで、二人は酒を飲んでいる真っ最中である。
「事情聴取長いし!ていうか私なんにもしてないし!呼ばれた意味がわかんないし!あーもうこんなことなら家で映画観てれば良かった!」
項垂れながら、空になった缶を指先で弾く。壱川はその様子を眺めながら、席を立って冷蔵庫へと向かった。
「ていうか何で急にアンタの家なのよ。今まで一回も上げなかった癖に」
「いやあ、なんとなく?」
「なんとなくって何よ!だったらうちんちでいいじゃん!どんだけ殺風景な部屋なのよ!」
酔っ払えば酔っ払うほど激しくなる水守をよそに、コップに水を入れてやる。差し出せば素直に飲み干して、また机に項垂れる。
「うーん、なんていうかな、ほら、俺にとっての……表明?」
「何それ、意味わかんない」
眠気に襲われ始めたのか、水守の目が閉じたり開いたり忙しくなる。そういえばうちには横になれるソファもないのだったと思い付いて、今度の休日は共に家具屋にでも行こうかと考えた。
「見られたくなかったんだよ。俺は何にも持ってない空っぽな人間だっていうのを」
だけど今は違うだろう。その言葉が水守の耳に届いているかはわからない。多分、起きたら全部忘れているだろう。
「お疲れ様」
呟いて、水守をベッドに運んだ後自分は何処で寝ようかと考える。このままにしておいても、一緒に寝ても、床で寝ていたって起きたらきっと怒られるんだろう。
そんな朝を想像しながら、壱川はまた缶ビールに手を掛けた。
***
暗がりに紛れて、少女は憂いていた。
憂うべきは先の見えない未来でも、どうしようもなく縋り付いてくる過去でもない。それはただ、敗北という二文字に満たされただけのこの現状だ。黒堂 彰は嘆いていた。
「テスト、クリアできなかった」
淡々と、少女は告げる。あのネックレスは今もあのホールで輝きを放っている事だろう。最後に取ってこれば良かったものを、そこまで考えが至らなかったのだ。
しばしの無言。何も言わない常盤を一瞥して、少女は痺れを切らしたかのように口を開く。
「全部わざとだったんでしょう。わざと私をあそこに立たせて、決断させようとした」
「さあ、どうでしょう。だけど私は、貴女の成長を楽しみにしている節がある」
やはり回りくどい話し方だ。眉をひそめながら、少女は続けた。
「私があそこで、探偵たちを選んでいたらどうするつもりだったの?」
まあ、答えはわかっているけれど。ソファに座れば、常盤の淹れた紅茶の匂いがした。
「その時は、全力で立ち向かわせていただきますよ。それが貴女の選択ならば、それを受け入れるまでだった」
やけに爽やかな言い草だ。この男は嘘をつかない。だからこれも本当なのだろう。勿論、そう答えなければ怒りのあまり今すぐにでも裏切ったかもしれないが。
常盤はやはり微笑みながら、悠々と少女を見る。
「やはり人間はなにもかも予想通りというわけにはいかないのですね。私は無力だ。先を見通す力もなければ、貴女の背中を押すことすらままならない」
「……馬鹿じゃないの?」
少女はそう悪態をつきながらも、何処か笑みを隠せずにいた。
次に会うのはどこになるだろう。いったいどんな罠を仕掛けてやろう。小さな探偵の顔を思い浮かべながら、常盤の横顔を見る。
この人間についてきたことを後悔などしていない自分を受け入れてしまった。ならば後は、この道を突き進むだけでいいのだろう。
悪戯な、子供のような笑みを浮かべて、少女は口を開く。
「ねえ、次は何をしよっか」
緊張している。物事を前にしてそう思うのは久しぶりだった。いや、初めてかもしれない。今まで随分と適当に過ごしてきたものだから、宮山 紅葉は緊張という言葉とそれなりに遠い生活を送っていた。
だから緊張している、という事実を飲み込もうとするほど、余計に胸が高鳴る。それは、初めて怪盗を前にした時とは別の高鳴りだった。
あの時のような高揚感は少なく、不安だけが募っている。それに反して呑気にお菓子を貪る木野宮 きのみは、帽子の先にあるリボンを不可思議にもぴょこぴょこと動かしながら宮山を見ていた。
予告状に記載されていた時間の当日。ネックレスの持ち主である資産家に予告状の件を伝え、入れるようにしてもらったのは昨日のことだ。彼が運良く警察嫌いであったことにより、木野宮一行はなんなくホールでの警備に参加することができた。
見渡す限りの監視カメラ。それにおびただしい数の警備員。実際にこういう現場に来るのは初めての宮山でも、金の力を感じざるを得ない。
一体こんな状況で、どうやって件の物を盗むというのか。宮山は脳を回転させ続けているが、緊張がそれを阻んで上手く思考を纏めきれない。
別のルートから侵入すると言った東雲と明乃は、打ち合わせ通りに行けば黒堂 彰が来るであろう時間と重なるようにホールに辿り着くはずだ。その途中で彼女と会ったら連絡が来る手筈になっている。
チラリと木野宮を見る。相変わらずの何も考えていなさそうな顔だ。まるで、あの日の事が夢だったかのように思う。
木野宮との出会いは、彼女の父親を通してのものだった。彼と木野宮を見守ることを約束し、宮山は今彼女と毎日を過ごしている。
そこにあるのは、娘を心配する父親と、純粋に父親に憧れた少女だけであると、全く疑ってこなかった。
いや、どうして疑えよう。彼女の父は世に探偵ブームを巻き起こした程の名探偵で、彼を知らない人間などひとりもいない程だ。そんな彼が、実は怪盗と手を組んで八百長をしていた、なんて事実をすぐに受け入れられるわけがない。
果てに木野宮はそれを知っていた上で、探偵になりたいと言っていたのだ。彼女の中に渦巻いている、父親に対する失望や疑念は尽きないだろう。その思いに、どんな感情が乗せられているのかを宮山は知らない。しかし軽くないことはわかる。だけどそんなの、一言も言ってくれなかったじゃないか。
今も夢を見ているようだと再度思う。何が真実で、何が嘘なのか。木野宮に問いただすことはできるかもしれないが、それでは信用を失うだけだとも思う。
いっそ無神経に聞いてしまえたらいいのに。
そう思った直後のことだった。隣に立っていた壱川が何かを察したのか、駆け出した瞬間である。
視界が真っ白になる。煙幕であると気付くのに時間はかからなかったが、しかし理解するよりも早く風が巻き起こる。同時に煙がピンク色に染まっていく。何処かで爆発のような音が聞こえた気がしたが、気にしている余裕はなかった。
その風は不思議な形状をしていた。ネックレスを展示しているケースと、それを中心に二重の円を描くかのように巻き起こる。
意味がわからないまま木野宮を抱き寄せ、かばうような仕草をする。
瞬間、後ろで人が倒れる音がした。次いで前から……いや、様々な方向からするではないか。見渡せば宮山の周りだけ随分と視界がクリアだが、やはりピンク色に染まった煙にホールが満たされていた。
すぐに真後ろで倒れた警備員に声をかけ、安否を確かめる。ただ眠っているだけのようだ。
「催眠ガス……」
呟いてからようやく理解する。この風は宮山と木野宮、それに壱川と水守だけを"巻き込まないように"煙を吹き飛ばしたのだと。
背筋を何かが這い上がるのを感じた。一体どうやって、そんな神業じみた事を成し遂げたのか。頭がかつてないほど高速で回転を始める。今度の高揚は、初めて怪盗を目にした時のそれと変わらない。無理難題に挑む探偵の目がそこにあった。
「ちょっと、大丈夫!?」
水守の声に頭が現実に戻ってくる。木野宮を見れば、ピンク!綺麗!と目を輝かせて元気に煙を掴もうとしていた。
次第に煙が晴れる。視界が良くなればなる程、重なるように倒れる警備員の身体が転がっているのが見えた。
そして、その少女の影も。
「こんばんは。みんな来てくれたみたいで良かった」
張り付けたかのような微笑み。端正な顔立ちが美しさを主張するが、目の奥が笑っていない。黒堂 彰。彼女はケースの上で脚を組み、静かに座っていた。
「って思ったけど、あれ?怪盗さんが足りないね。まあ、いっか。貴女がいてくれてるんだし」
視線の先には、木野宮 きのみ。宮山は思わず木野宮を抱き寄せる手に力を込めた。
「俺たちを呼び出して、何の用だ?」
壱川が冷静に口を開く。東雲たちがどんなルートで来るのかは誰も知らないが、まだ到着していないから時間を稼がなければならない。宮山もすぐに理解した。
「用? 単純だよ、勝負しようと思って。私が捕まるのが速いか、それとも私がこのネックレスを着ける方が速いか」
ね、単純でしょ。黒堂 彰は笑ってケースを指先で叩いた。
「でも残念。もうすぐにでも取れちゃうよ、こんなの。あーあ、つまんないな。本当につまんない。勝ちが確定してるゲームってやる気になる? ならないよね。こんなの一瞬で……」
「君は!」
少女が腕を上げようとする。それを見逃さなかった壱川が、何かを仕掛ける気だと気付き声を上げた。
「君は、自分の意志であの男についているようには見えなかった。何か事情があるんじゃないのか?」
水守が隙を伺いながら、しかし踏み出せずにいる。宮山も同じく、彼女の言葉を待つしかない。状況は緊迫していた。予想外に速い登場に、有無を言わさない場の支配感。全ては彼女の気分次第でどうにでもなってしまうと嫌でもわかる。
「……事情?」
少女が張り付いた笑みのまま、首を傾げた。
「……どうして木野宮を見逃したんだ。君は、助けて欲しかったんじゃないのか」
宮山が問う。少女は何も言わない。
「俺たちにはその意志がある。君が仲間になってくれるなら、そんなに心強いことはない。彼に何をされたのか、教えて欲しい。仲間にはならなくても、助けることはできるかもしれないから」
真剣な眼差しを突き付ける。宮山の本心であった。救えるものは救いたい。もしも彼女が願うなら、手を差し伸べたい。そうして平和な日常に戻れるのなら、木野宮だってそれに越したことはないと思うはずだ。
しかし。少女はそれを払いのけるかのように笑うのを辞めた。彼女は小さく何かを呟いたが、それが何かはわからなかった。
「違うよ、全然違う。聞きたい? どうして私がここにいるのか」
それでも宮山は頷いた。知るべきだと思ったからだ。そして彼女は語り出す。静かに、昨日見た夢を思い出すかのような表情で。
「私は―――」
猫猫事件帖 新章
弐
自分の顔が、世間の一般から見てかなり良くできているのだと知ったのは随分幼い時であったように思う。しかしそれは同級生からの告白の回数でも、街で声を掛けられる回数から知るわけでもなかった。
よくある話だと思う。黒堂 彰。当時中学二年生。彼女は常に校内で注目の的だった。
男性からは人気の一方で、女性陣からはその裏返しと言わんばかりの反発を受けていた。しかしそれでもそれが気にならないのは、単に彼女たちの言う数々の悪態が僻みだと知っていたからである。
随分とつまらなかった。親から口座に送られてくる金銭がどれだけ少なかろうと、楽に生きてこれた。欲しい物は他人を通して得ることができる。反面、持っていないものと言えば充実した学校生活だとか、気の合う同性の友達とかそういうものになるのだが、それを持っていないことに対しては何の感情も得なかった。
無表情を貫けば、あらぬ噂で校内が満たされることもあった。そのどれもがただの噂でしかなかったが、少女はそれを否定もせず、ただただ一日の時間を消化するばかりの日々を送っていたように思う。
つまらなかった。目標もなく、心の底から欲しいと思うものもなかった。ただただつまらないと思う一方で、その事実に苛立ちさえ覚えていた。
「なあ、一緒に帰らないか」
声を掛けてきたのは、ひとつ歳上の先輩だった。無視してペンケースを鞄にしまう。苛立ちは増幅するばかりで、ひとつも減りはしない。
「良かったら帰りに、コンビニでも寄ろうぜ」
照れ臭そうにそう話す男に、少女は嫌気がさしていた。人を好きになるという気持ちすら見失った少女は、その好意に向き合うということを知らない。
「……ない」
「え? なんて?」
小さく呟いた言葉を反芻する。少女は鞄の中を探りながら、至って冷静に現状を把握していた。
「財布が、ない」
「奢るってそのくらい!な、行こうぜ!」
鞄の中に入っているはずの財布がない。誰かが盗んだのだろうと、すぐに察しが付いた。その人物も容易に想像が付く。クラスの中でも目立っている方の女が、いつも自分を目の敵にしているからだ。
財布を盗まれたことに対する怒りは、皆無に等しかった。なんてつまらないことをするんだろう。そればかり考えては、やはり苛立ちが募っていく。少女は取り出した携帯電話から、連絡先の一覧を開いた。
一年生の頃、まだ彼女が仲良くしようとすり寄ってきていた頃に連絡先を交換したことがある。ひとつも表情を変えずに、黒堂 彰は指先を動かした。
内容は簡潔だ。話があるので近くの公園まで来てください。これだけだった。そのまま先輩を振り切って公園まで駆け抜ける。日が沈みかけている時刻だった。
公園の遊具に座り、暗くなっていく空を眺める。何もかもがつまらなかった。何でも持っている反面で、何も持っていない。何者にもなれず、何もできない。自分がいかに溢れかえる凡人の内のひとりに過ぎないかを理解しているが故に、苛立ちを感じずにはいられない。
だけど知っている。世界とはそういうものなのだと。この世のどこを探しても、自分が思っているようなものには出会えないだろう、と。
三時間程が過ぎ、月が頂上に達する頃。公園にひとりの影が見えた。必ず来ると確信を得ていた少女は、ブランコから立ち上がり、影に向かって歩み寄る。
「ごめんね、待った?あんたより優先しなきゃいけないことがたくさんあってさあ」
やはり件の、クラスメイトであった。少女は彼女の姿を見ても、表情を変えない。ただ心の奥底で煮え立つような苛立ちだけが、彼女を支配している。
「ああ、そういえば。これ落ちてたよ、あんたの財布じゃない? 確認したけど、中身は全部抜き取られてたよ。可哀想。あんた、一人暮らしなんでしょ? これからどうやって生活すんの?」
嘲笑するかのような言葉になど、何も感じはしない。ただ、日常の退屈さが、自分の無力さが、苛立ちとなり、狂気となり、黒堂 彰を突き動かしている。
暗がりから少女が顔を出す。クラスメイトは尚も嘲る言葉を吐き続けていた。暗がりから少女の身体が出てくる。クラスメイトの顔が、徐々に青くなっていくのがわかる。
「あんた、何する気!!」
叫ぶ声など届かない。少女の手には、体育倉庫からくすねてきた金属バットが握られていた。苛立ちをぶつけられれば何でも良かった。とうに自分は限界なのだと、気付いていたのに見て見ぬ振りをしていた。
最初からこうすればよかったのだ。それで何が解決しなくとも、棒立ちの人形になどなってやる気はないのだから。
嗚呼。私はどこに行きたいのだろうか。
クラスメイトの悲鳴を聞き流しながら、腕を振り上げる。この先に待っているものが地獄だとしても、今よりはマシかもしれない。環境が変化するなら、何でも良かった。
黒堂 彰の目には、もう何も映っていなかった。
「暴力はいけませよ」
何も、映っていなかったのだ。この瞬間までは。
「ですが金銭を盗るのもいけませんね。それではただの泥棒だ」
この男が、現れるまでは。
「何……ッ」
腰が抜けたのか、クラスメイトがその場に崩れ落ちた。片手で止められた金属バットに力を込めるが、ビクともしない。少女は男を睨みつける。
随分と美しい男だった。長い白髪を束ね、白い燕尾服を纏っている。まるで漫画の主人公だと笑いたくなるが、それが様になっているから笑えない。
「放して……」
黒堂 彰が小さく呟く。男は微笑んで言われた通りに手を離した。支えを失った金属バットが地面に突き刺さる。クラスメイトに当たるすれすれのところを叩いたようで、彼女はそこで殴られたと思ったのか意識を失ってしまった。
「……誰、アンタ」
「さあ、誰でしょう。ただの通行人なのですが……信じてもらえませんかね?」
人間味がない。あまりに完成されているが故に。男に釘付けになっていると言っても過言ではなかった。彼の放つ何かが、少女を震わせている。
「本当にただ通りかかっただけですよ。偶然にも暴行事件の現場を見てしまいそうだったので、思わず止めてしまっただけですから、お気になさらず」
この男は何者なのか。一体今、何処から現れたのか。まるで気配を感じなかったし、この男が声を出すまで止められていることにも気が付かなかった。
不気味。その一言に尽きる。しかしだからこそ、少女の目に光が灯った。
「……暗い顔ですね。折角美しいのに。嗚呼、そうだ、貴女にこれを差し上げましょう」
言って、男は地面に膝をついた。何をされるのかと身構えれば、優しく手を取られ困惑する。ポケットから取り出したそれを、そっと少女の指にはめて、男は微笑んだ。
「……指輪」
中学生でもわかる。ただの指輪ではない。輪の真ん中に嵌められた大きく光るそれが、偽物の宝石ではないということも。
「とてもよくお似合いだ」
「……これ、ニュースで見た。予告状が届いて、警察が守るって」
そう、今朝のニュースで見たばかりの代物だ。巷で怪盗と呼ばれる人間が、この指輪を狙っていると。怪盗なんて、泥棒を言い換えただけだと無表情でテレビを見つめていた自分を思い返す。
彼を見ればわかる。そんなのは、ただの偏見でしかなかったのだと。
「貴方は、怪盗なの?」
「だとしたら、どうしますか」
依然、微笑んだまま彼は問う。きっと警察を呼んでも、捕まる気など一切ないのだろう。だからこんなにも悠々と、少女の前に姿を現し、顔を見せ、こうして佇んでいる。
気付けば苛立ちなど最初からなかったかのように心は晴れていた。非日常が目の前に形となって現れたことに、心が打ち震えて喜んだ。きっとこれこそが求めていたものなのだと信じて止まらなくなった少女は、泣きそうになりながら声を出す。
「私を、連れて行って」
男はしばし驚いた顔をして、それから彼女の手を離し、背を向けた。それがどういう意味なのか察しながら、しかし少女は彼の姿を目に焼き付ける。
「貴方の名前を教えて」
指輪などいらない。金も、学校も、友達もいらない。ただひとつ、欲しいものが今見えた。
男は振り返る。相変わらず、あまりに不自然なほど柔和な笑みを浮かべたまま。
「常盤、社と申します」
つづく!