新章 最終話

そこに乗せたのは怒りではなかった。ただ純粋に勝ちたいという気持ち。
明乃の鋭い眼光がそのまま突き刺さったかのようだった。
立ち上がった明乃の一撃に、怯んでいた常盤が吹き飛ぶ。衝撃で天井がまた少し崩れ、爆音となって辺りに轟いた。



猫猫事件帖 新章
最終話



「彰ちゃん」
差し伸べられた手に、困惑する。
彼女はどうしてここまで真っ直ぐでいられるのかと、問いかけたくなる。
何が彼女をそうさせたのか。どうしてこんなにも純粋でいられるのか。
黒堂 彰の思考は半ば停止していた。その手を取ったらどうなるのか、確かめたくて仕方がない好奇心もあった。しかし何故か取れずにいる。何故と問おうとすると、心の奥底が軋んで悲鳴を上げるような痛みが走る。
「……」
呆然とする少女を気にせず、木野宮は手を差し伸べ続けた。
しかしその手を切り裂くかのような轟音が響く。一同は反対側のホールに振り返った。音が耳に届いたのか、何人かの警備員が唸りながら起き上がろうとしている。
「まずいな」
壱川が呟く。東雲たちに何かあったのかもしれない。察して水守が走り出した。壱川もそれに続く。
宮山が木野宮を見ると、木野宮は力強く頷いてもう一度少女の方を見た。
「行こう!彰ちゃん!」
眩暈がするようであった。なんとか現実に自我を引き寄せて、少女は常盤に連絡を図る。見物に来ると言っていたから、いつも付けている通信機を耳に当てがう。しかし何も聞こえない。雑音すら拾えない。先ほどの音の中で、何かがあったのだろうと察することができた。何故だか胸騒ぎがする。こういう時に限って、勘というのは当たるものだ。
木野宮を見る。彼女の目は曇りなく、少女が手を取るのを待っていた。
選ばなければいけない。今。
少女はそれに気付かながら、静かに考える。何故その手を取れないのか。好奇心で取ってしまえばいい。つまらなければまた捨てればいい。そう思うのにとれないのは、あの男が頭の隅にいるからだろうか。
何故あの男が頭の隅にいるのだろう。制裁が怖い?いいやそんなことはない。それこそ受けて立ってもいいくらいだ。
何故。
何故。
少女は幾つもの思考を張り巡らせた。数ある要因を推測しては消していく。繰り返していくうちに、答えは嫌でも見えてくる。
考えるなど警鐘がなる。しかし考えるのをやめるわけにはいかない。ここで選ばなければいけないと、わかっているからだ。
そして少女はようやく気付く。漠然と思っていたことを思い浮かべると、腑に落ちてしまった。
ひとつひとつのことを思い返すうちに。ひとつひとつのことを考え直すうちに。
あの日、泣きそうになりながら常盤 社に縋った自分の感情に、嘘をつけていない。
あの時、祈りに似た形で彼に憧れたその気持ちを、捨てきれていない。
それは、かけがえのない思い出のようで、しかし今も尚少女がここに居る理由。少女がマントを纏い、探偵に立ちはだかる理由。止まれずにはいられない原因でもあり、暗がりに引きずり込まれた要因でもある。
彼は最初から遠かった。並べてなどいなかった。今も、彼に追いつく事はできていないだろう。彼が見ている世界と、自分が見ている世界は程遠いのだろう。
しかし追いつく事を諦めたのは、他の誰でもない少女自身であったのではないか。彼の安否が気になってしまうのは、彼にまだ期待を寄せているからではないか。
少女は気付いた。諦めていたことに。受け入れていなかったことに。自分が如何に小さい人間であったかということに。
そうすると話は早い。だって受け入れればいいだけの話なのだから。しかし少女は下手くそな笑みしか浮かべられなかった。木野宮のようになりたくないと言えば嘘になる。彼女のように、普通の幸せを感じて生きてみたかった自分もいた。ただ普通に生きていけたらと、何も知らずにいられたらと思っている自分もいた。
だけどそうじゃないだろう。目指した場所には、まだ全然届いてなんていないのに。
少女は木野宮の手を払いのけた。木野宮がぽかんとしているうちに、彼女の内なる熱が蘇ったかのように感じる。
「ごめんね」
そこにあるのは、穏やかな微笑みだった。張り付けたような笑みでも、取り繕ったような顔でもない。
「ありがとう。本当に、嬉しかったよ」
そう言って少女はマントを翻す。途端に姿が消えたのを見て宮山は口を開けるしかなかった。しかしすぐに思考が戻り木野宮を呼べば、彼女もまた続いて走り出した。
そこに、ダイヤのネックレスを残して。



***



瓦礫から這い上がりながら、常盤はやはり服に付着した埃を払った。そもそも、天井に小さな穴を開けるだけのつもりだったというのに、思いの外爆発が大きかったことが遺憾だ。あの小型爆弾を作る時に考え事をしていたからだろうか。それとも運命の悪戯という奴なのか。溜息を吐きながら立ち上がると、少し離れた場所から人の気配がした。
あの怪盗たちが追ってきているのだろう。騒ぎに気付いて人が集まってくるのも時間の問題だ。
冷静に状況を把握しながらも、明乃の一撃に身体が相当な深手を負っていることがわかる。しかしやはり致命傷が避けられているのは、あの怪盗の教えからであろうか。
よろめく身体をなんとか動かしながら、常盤は思う。
彼女は選択できたのだろうか。
今度は自分で、自分の道を。きちんと欲しいものがわかっただろうか。それとも、まだわからずにいるだろうか。
どっちでも良かった。興味がない、という意味ではない。人が選択をしたのなら、それを否定する権利など誰も持ち合わせていないと考えているからだ。
だからこそルールがいる。何もかもを尊重していては、全てが崩壊するからだ。
「ついてませんね」
呟きながら、遠くに聞こえるパトカーのサイレンに目を細める。まさかここで捕まるようなヘマはしないつもりだが、しかしそれが至難の業であることも理解できる。
こんな時に、彼らのように相棒という存在がいれば楽なのだろうか。怪盗団の人間は皆自分にとっての仲間だ。いや、秩序を守っているのなら世の怪盗全てがそうだと言ってもいい。だが彼らはそれとは違った形の絆を築いているようにも思う。
常盤が再びよろめく。意識はハッキリしているのに、身体が言う事を聞かないのだ。ここで倒れてはいけない。そんな事はわかっているのに、地面が近付いていく。
しかし、身体と地面がぶつかる事はなかった。視界に映る鮮烈な赤は、あの日に渡した指輪に嵌められた宝石と同じ色だ。どうしてこのマントの裏側を赤色に染めたのかは忘れたが、しかしその色を見るとあの夜を思い出す。常盤は微笑んだ。
「愚かな選択だ。だけど貴女は選んだのですね」
彼の肩を支えながら、少女は真っ直ぐに前を向いていた。まるで出会った日のような瞳を携えて。
「最初から選んでたよ。最初から選んでた。私は貴方についていく」
あの日に、確かに救われたから。まだ、この先が見たいから。言わずとも、少女、黒堂 彰の目はそう語っていた。
彼女は不敵にも笑う。いつも通り挑発的で、いつも通り何処か子供っぽい笑みだ。
「ねえ、こんなものじゃないんでしょ?もっと見せてよ、いろんなもの。……社さん」
これもまた、ひとつの選択なら。それを受け入れる。それだけだ。そう思って、常盤 社は目を瞑る。
「勿論ですよ。世界は貴女が思うより、ずっと面白いものだ」
そうして二人の怪盗は、誰にも知られず夜闇に消えて行った。



***



「……まあ、なんだ」
不器用にも宮山は木野宮の頭に手を置いてみた。撫でるまではしてやらなくてもいいだろうと思う。
しかしこの状況、非常に簡潔に述べるなら、木野宮は友達になろう!という誘いを断られた可哀想な子とも取れる。木野宮は阿呆だから、そう思ってる可能性も十分ある。
何か言ってやらねば。思いながらも友達が少ない宮山にとって、こんな状況はあり得ない。故に、なんと言えばいいのかわからずにいる。
「……いつか友達になれるさ」
下手くそか。自分でもツッコミを入れてしまうくらいには下手くそだ。宮山は勝手に落ち込みながら、木野宮の顔を覗き見てみる。
彼女はいつも通りだった。子供っぽくて、明るい笑顔が満開だ。
宮山は一安心しながらも、肩の力を抜いた。
「もう友達だよ」
木野宮が言う。嗚呼、成る程そういうことか。妙に納得して、帰路に着くことを促す。事情聴取されたいと喚く木野宮を無理矢理連れながら、早く靴を脱いでソファに寝転がりたいと願った。
事情聴取なら、本職の刑事さんがやってくれるさ。だから今は帰って、好きなものでも食べようか。
宮山が言うと、木野宮のカツ丼!と言う声が夜の街に響き渡った。


***


「はい!宵一さん、あーん!」
「自分で食えるっつーの!ていうかなんでゴリラの形なんだよ!食いづれえわ!ていうか器用だなお前!」
「練習したからね~!あ!マヌルネコも作れるよう!」
「作らなくていい!」
とある街のとある病院、とある一室にて。
事件に巻き込まれたとして壱川によって処理された東雲は、現在入院中である。
自室だけは触るなと何度も明乃に言い聞かせているが、明乃のことだからこれを機にぴかぴかに掃除していることだろう。早く帰りたくて仕方がない。
意識を失ってから回復するまでは明乃が泣きっぱなしで大変だったと壱川と水守からの報告を受けているから、後で二人に面倒を見てくれた礼もしなければならないだろう。試作機でもやるか、と考えながら東雲は真っ二つになったゴリラ型に剥かれたリンゴを頬張った。
「結局逃げられるしよ。ついてねえなあ、本当に」
「でも宵一さんが無事で私は良かったよ!えへへ、帰ったらお肉パーティしようね」
穏やかに笑う明乃を見ながら、東雲は考える。
結局何も片付いてなどいないじゃないか。あの男は何者なのか、これからも狙われ続けるのか。考えなければいけないことは山ほどある。
しかし今は、こうして日常に帰っておこう。また来るべき日に備えて、今度は何を開発しようかと思いながら、東雲は林檎をもう一度頬張った。



***



「で、結局何にも解決してないわけなんだけど」
「まあ、そうなるねえ」
「結局!何にも!解決してないわけなんだけど!」
机を叩く水守を宥めながら、壱川は手に持った缶ビールを口にした。机と椅子、テレビ。他に目立つものが置かれていない殺風景なリビングで、二人は酒を飲んでいる真っ最中である。
「事情聴取長いし!ていうか私なんにもしてないし!呼ばれた意味がわかんないし!あーもうこんなことなら家で映画観てれば良かった!」
項垂れながら、空になった缶を指先で弾く。壱川はその様子を眺めながら、席を立って冷蔵庫へと向かった。
「ていうか何で急にアンタの家なのよ。今まで一回も上げなかった癖に」
「いやあ、なんとなく?」
「なんとなくって何よ!だったらうちんちでいいじゃん!どんだけ殺風景な部屋なのよ!」
酔っ払えば酔っ払うほど激しくなる水守をよそに、コップに水を入れてやる。差し出せば素直に飲み干して、また机に項垂れる。
「うーん、なんていうかな、ほら、俺にとっての……表明?」
「何それ、意味わかんない」
眠気に襲われ始めたのか、水守の目が閉じたり開いたり忙しくなる。そういえばうちには横になれるソファもないのだったと思い付いて、今度の休日は共に家具屋にでも行こうかと考えた。
「見られたくなかったんだよ。俺は何にも持ってない空っぽな人間だっていうのを」
だけど今は違うだろう。その言葉が水守の耳に届いているかはわからない。多分、起きたら全部忘れているだろう。
「お疲れ様」
呟いて、水守をベッドに運んだ後自分は何処で寝ようかと考える。このままにしておいても、一緒に寝ても、床で寝ていたって起きたらきっと怒られるんだろう。
そんな朝を想像しながら、壱川はまた缶ビールに手を掛けた。



***



暗がりに紛れて、少女は憂いていた。
憂うべきは先の見えない未来でも、どうしようもなく縋り付いてくる過去でもない。それはただ、敗北という二文字に満たされただけのこの現状だ。黒堂 彰は嘆いていた。
「テスト、クリアできなかった」
淡々と、少女は告げる。あのネックレスは今もあのホールで輝きを放っている事だろう。最後に取ってこれば良かったものを、そこまで考えが至らなかったのだ。
しばしの無言。何も言わない常盤を一瞥して、少女は痺れを切らしたかのように口を開く。
「全部わざとだったんでしょう。わざと私をあそこに立たせて、決断させようとした」
「さあ、どうでしょう。だけど私は、貴女の成長を楽しみにしている節がある」
やはり回りくどい話し方だ。眉をひそめながら、少女は続けた。
「私があそこで、探偵たちを選んでいたらどうするつもりだったの?」
まあ、答えはわかっているけれど。ソファに座れば、常盤の淹れた紅茶の匂いがした。
「その時は、全力で立ち向かわせていただきますよ。それが貴女の選択ならば、それを受け入れるまでだった」
やけに爽やかな言い草だ。この男は嘘をつかない。だからこれも本当なのだろう。勿論、そう答えなければ怒りのあまり今すぐにでも裏切ったかもしれないが。
常盤はやはり微笑みながら、悠々と少女を見る。
「やはり人間はなにもかも予想通りというわけにはいかないのですね。私は無力だ。先を見通す力もなければ、貴女の背中を押すことすらままならない」
「……馬鹿じゃないの?」
少女はそう悪態をつきながらも、何処か笑みを隠せずにいた。
次に会うのはどこになるだろう。いったいどんな罠を仕掛けてやろう。小さな探偵の顔を思い浮かべながら、常盤の横顔を見る。
この人間についてきたことを後悔などしていない自分を受け入れてしまった。ならば後は、この道を突き進むだけでいいのだろう。
悪戯な、子供のような笑みを浮かべて、少女は口を開く。
「ねえ、次は何をしよっか」

新章 参

「なーんで人間ってのは学習しねえのかなあ。いつの時代もこういうでけえ現場は通気口が怪しいって相場が決まってるもんだろお?」
「えへへ、私こういうの好きだなあ。なんかスパイごっこみたいで楽しいもん!」
「そうかあ、そりゃあ良かったよ」
適当に返事をしながら、東雲 宵一は匍匐前進で通気口の中を進んでいた。後続が明乃なのは、東雲の更に前を行くドコデモキレイニナール四号機の動作を確認しているからだ。綺麗好きの東雲にとって、通気口の中を通って服が汚れるのは地獄に等しい。
「あいつらは上手くやってんのかね」
独り言のように呟きながら、東雲が腕に着いた装置のスイッチを押す。小さいモニターにショーケースの周りが映されるが、ネックレスを取り囲む警備員が険しい顔をしているところしか映らなかった。
「この程度の警備でやり過ごそうなんて甘っちょろいにも程があるぜ」
溜息をつきながらモニターを切る。切った直後、明乃が何か叫んだのが耳に入った気がした。瞬間、目の前が煙に包まれる。ドコデモキレイニナール四号機が必死に動き回るが、押し寄せる煙を排除し切れずショートしかけた時だった。
「宵一さん!」
爆音。と同時に身体が浮遊感に包まれる。落ちているのだと察するより早く明乃が東雲の身体を抱えるように抱きしめ、そのまま地面に着地した。
「デジャヴだ……」
言いながら見上げれば、ドヤ顔をした明乃が此方を見ている。降ろしていいぞと告げても明乃は動かない。そして、明乃が何かを察したかのように顔を上げ、その表情が険しくなった。
「……邪魔をしないでいただけませんか?」
その声には覚えがある。東雲もまた、険しい表情でそちらを見た。
爆発の煙から、その男は飄々と現れた。異様なオーラを纏って、異様なほど柔和な笑みを浮かべて。
「まさか、貴方がたにまで予告状を送るとは……本当にあの子は読めませんね」
その男、常盤 社。
東雲を地面に下ろしながら、明乃は戦闘態勢に入る。
「ハッ、わざわざ来てやったってのになんだその言い方は!失礼だろうが!邪魔して欲しいから予告状なんてもん渡してきたんだろ」
常盤は肩を竦めて溜息を吐いた。
「困るのですよ。あの子の選択の邪魔をしてもらっては。……黙って引き下がってくれると言うのなら、勿論私も黙って此処を退くのですが」
いいや、そんな気はない。目がそう訴えていた。東雲ではなく、明乃がだ。
わかったと言わんばかりに東雲は頷いた。リベンジしたいんだろう。言葉にせずともわかる。明乃の脳は今、この男に勝つことでいっぱいだ。
「……悪いが俺も約束は破らない主義なんでな。アイツらに手伝ってやるって言った以上、それを通すのが筋なんだが……」
明乃が小ぶりのナイフを取り出す。東雲は首にかけていたゴーグルを装着した。
「今はそんなことより!約束通りテメーをはっ倒す!」




猫猫事件帖 新章




「貴女は本当に覚えが早い」
褒めているのだろうか。表情が揺るがないせいで、その真意すら見失いそうになる。
少女、黒堂 彰はそれでも少し嬉しそうだった。自分が初めて興味を惹かれた目標とも言うべき人間にそう言われているからだ。
常盤 社は思いのほか早く少女の前に現れた。彼は少女に新しい住む場所を与え、怪盗としてやるべき事を、知るべき事を教えた。
覚えが早いと言われた通り、少女は教えられた事を次々と飲み込み、ありとあらゆる手段を身に付けた。
しかしそれは慣れという退屈を招く原因にもなり得る。
やはり欲しいものは手に入るのだ、という再確認にしかならず、慣れればこれも日常の一部へと変化していく。少女は少なからず落胆していた。出来るが故に、窮地に陥ることもなく、スリルを味わうこともない。
負けることも、捕まることもあり得ないと驕ってすらいる。いや、驕りでもないだろう。実際に少女は、そこまでの実力を身につけつつあった。
「社さんは、つまらなくないの?」
「何がです」
同時に、この男への親近感もあった。彼は何でも持っている。何でもこなせる。それも、自分以上に。
彼もまた、つまらない日常に飽き飽きとしていたが故にこういったことをしているのではないかという推測に至るまではすぐだった。何を考えているかわからずとも、推測はできる。はずれているとも思えない。彼の今まで成し遂げた事の大きさは、聞かずともわかる。それでもまだ足りないのだろう。自分であれば、足りないと感じるだろうから。
そんな事を思っての質問だった。つまらなくなっても尚、彼女が常盤のそばにいる理由でもあった。
つまらない事をしていると気付かない人間ほど、つまらない事をする。あのクラスメイト達のように。彼はそうではない、と信じたかったのだ。
「つまらなくなどないですよ。世界は面白いもので溢れているじゃないですか」
「……でも、社さんは何でも持ってるし、何でもできるでしょ。それってつまらなくない? 全部、自分の思い通りにいくなんて」
彼は、笑っていた。少女は不思議そうな顔をする。
「私は何もできませんよ。秀でているものなど、何もありません。特別な人間など、この世の何処にもいないものだ」
失望。いや、絶望か。少女はその言葉に酷く怒りを覚え、目の前が暗くなっていくのを感じた。
常盤 社という人間は、自分よりも"何でもできる"身でありながら、自分を特別だとは言わない。そんなことが、許されていいはずがない。
怒り。それしかなかった。目の前の暗闇が消えると同時に、少女の目からも灯っていた光が消える。
傲慢だ。そう思う。この人間が特別でないのなら、それを目指していた自分は一体何なのか。何者かになりたい。何者にもなれない。他者より優れていても、誰にもなれはしない。突き付けられたようで、少女は無言で部屋を出た。
これは失望だ。少女は決め付ける。彼の底を見たような気持ちになる。こんなものはいらないと殴り捨てたくなる。
しかし元の生活に戻るのもごめんだった。最早、これを失くしてしまえば、今度こそ行き詰まるような気がして。
ただ少女が彼を、名前で呼ぶことはなくなった。


怪盗団。怪盗の秩序を守るという目的で作られた団体。作ったのは何を隠そう、常盤 社であった。
少女にはそれがどれ程重要なものかはわからない。しかし目的や思想が明確にあるというのは動きやすいもので、提示されたルールには従った。自ら勉強もした。過去にあった事件も洗いざらい調べて、自らの演出の為に様々な分野の勉強をした。
そんな彼女の目を引いたのが、木野宮という名前である。この名前自体は少女も知っていた。なんせ、世間をあれだけ賑わわせていた存在である。怪盗になる以上、探偵というものが宿敵になるのだとその時にようやく理解ができた。
そしてその木野宮に娘がいる、という情報が少女を突き動かした。調べれば、年齢は同じだ。それに彼女は名探偵の娘で、自身も探偵になりたがっているという。
目を付けない理由がなかった。気になって仕方がなかった。この探偵との対決は、自分の退屈を紛らわせてくれるかもしれない。
彼女と敵対する理由ならある。彼女の父親が八百長を行なっていたと、常盤が教えたからだ。その娘をマークするのは、怪盗団として当然のことだろう。常盤はあまり目立った動きをしないようにと注意したが、少女は聞かなかった。
そして某日―――とある教会で、ようやく少女と対面することになる。
彼女の真剣な眼差しを見て、少女は高揚した。彼女こそが、退屈を打ち破る鍵かもしれない。気付けば少女は、彼女を随分と観察するようになった。
彼女―――木野宮 きのみは少女の予想を反して普通の女の子だった。学校に行き、友人と仲良く話し、家に帰って助手とお茶をする。繰り返しの日々。少女は落胆した。
しかし、同時に彼女の"普通"を目にして、思い始めたこともある。
普通の何がいけなかったんだろうか。
それは自分への問いかけであった。どうして自分は普通になれなかったのか。どうして普通に幸せである事は悪だと思っていたのか。どうして、どうして。どうして、こんなにも退屈だと思い込んでいるのだろうか。
少女は混乱する。彼女が描く日常は、どれも色鮮やかで美しかった。そのひとつひとつを、少女は持っていない。彼女が持つものを、つまらないと言えない自分がいる。どうして、どうして。
思い詰めている内に、その日は来た。常盤が彼女たちを誘き寄せようと提案したのだ。少女が真正面から彼女たちと接触した以上、もう突き詰めてしまった方がいいだろうという常盤の考えであった。
そしてあの瞬間。黒堂 彰は、初めて常盤に反抗を見せ、木野宮たちを逃した。
退屈からの脱却を思い描いたのだったか、彼女に普通を歩み続けて欲しいと願ったのだったかは忘れた。
ただ、あの時―――黒堂 彰は、確かに自分の救済を、祈っていたように思う。



「それが、私の話。それだけが、私の話」
黒堂 彰はやはり静かに告げた。一同が静寂に包まれる。彼女が自分から常盤について行ったのだという予想を反する事実に、糸口は最早なくなっていた。
「……君はどうしたいんだ」
宮山が問う。少女は肩を竦めた。
「さあ、どうしたいんだろう? だけどそこの探偵さんとの対決を楽しみにしてるのは本当かな。なんでだろう、貴女っててんでダメダメなのに」
木野宮と少女の目が合う。
「なのになんで、貴女ならって思うんだろう」
宮山は推測する。彼女は自分で自分を理解できていない。何を求めているのか、どうしたいのか、それをまだわかっていないのだ。
つけ入る余地はあるはずだ。仲間にすることも叶う。だが、次の言葉は出てこない。何故なら最大の当事者は宮山ではない、木野宮だからだ。
「私はこの生き方以外知らない。普通が恋しい? そんなの隣の芝生が青いってやつなだけだよね。わかってる、普通になったって苦しむだけ。だって、私はそういう風にできてるんだもん」
無駄なんだよ。少女は言う。宮山は次の言葉を選び続けていた。しかしそれも意味がないとわかっている。だが何か言わないと、今度こそチャンスがなくなってしまう。
焦る宮山の腕の中で、木野宮がもぞもぞの動き出した。思わず手を離せば、木野宮のりぼんがピョコピョコと動く。彼女に賭けるしかない。その場にいる全員がわかっていた。だが当の本人がわかっているかと聞かれれば絶望的である。
木野宮は、歩いた。少女に向かって、真っ直ぐに。少女は尚も余裕の笑みを浮かべては頬杖をついている。
木野宮 きのみ。名探偵の娘にして、自身も探偵を目指す平凡な高校生である。だがしかし、彼女が人より秀でている部分も、宮山は知っている。
「友達になろう!」
それは、純粋な心と、単純な思考。故に彼女は、立場も状況も関係なく、真っ直ぐに言葉を投げることができる。
故に彼女は、目の前の少女を敵とも捉えず、怪盗とも捉えず、ただ同い年の女の子として映すことができる。
「は……」
少女の顔が崩れた。純粋に、驚いたような顔だった。
「友達に!なろう!」
両手を大きく広げて、木野宮は叫んだ。少女はすぐに顔を顰めて、彼女に噛み付く。
「馬鹿じゃないの?」
「一緒に遊ぼう」
「だからそういうのはいらないって言ってるの!」
「いっぱいおしゃべりしよう!」
正真正銘の馬鹿でありながら、だからこそ木野宮は人の心を剥き出しにすることができる。
宮山は思う。彼女はやはり、自分が知っている木野宮 きのみと何も違いはしないと。何を背負っていても、何を考えていても、ただこうして真っ直ぐに人とぶつかれるような少女なのであると。
「ふつうでも、ふつうじゃなくてもいいよ」
少女の顔が崩れていく。まるであどけない、ただの女の子であるかのような。
「彰ちゃん」
木野宮が、ひとりの少女に手を差し伸べた。



***



「クソ野郎!なんだってそんなにすばしっこいんだよ!」
大声を上げる東雲に対して、明乃は始終仮面を被っているかのように表情を変えなかった。身体に傷を負っても声を出さず、息を殺して隙を待つ。しかし淡々と攻撃を躱され、内心で焦りを覚えている。
恐怖に似た感覚だった。身体能力で言うなら、僅かでも明乃が優っているはずだ。しかし常盤はそれを別の部分すべてで補っているかのようであった。
勝つビジョンが見えない。それが明乃の心を焦らせて、苛立たせる。負けるわけには行かない。今度は負けないと、後ろに立つ東雲に誓ったから。
しかし刻一刻と時間が過ぎる度に、やはり自分が膝をついている想像がはっきりと形を成していく。
「明乃!こっちに来い!」
東雲が叫ぶ。命令に従うロボットのように、明乃の身体が半回転し、東雲を目指し始める。
しかし上手くは行かなかった。常盤が目の前に立ちはだかったことで、明乃の身体に急ブレーキがかかる。
「……勿体ないですね。貴方ほどの能力があれば、私なんて一溜まりもないというのに」
嫌味のような言葉に、明乃の顔が曇る。彼は自身の服に着いた誇りを手で払った。
「嫌味ではないですよ。ただ無意識に殺さないように手加減しているから私に届かない、というだけの話で。貴方がそういう風に"教え込んだ"のでは?」
視線が東雲に向く。明乃は何も言わずにナイフを握る手に力を込めた。
「……私も暴力はあまり好かないのです。仕方なくそういう手段を取っているだけで」
常盤の腕が上がる。何かを仕掛けようとしていることに気付いた明乃が地面を蹴り、常盤に飛びかかる。
体勢を崩した常盤が、明乃ごと瓦礫に突っ込んだ。大袈裟なまでに地面が揺れ、明乃が顔を上げ、すぐさまその顔から血の気が引いていく。
「……ッ宵一さん!!」
叫んだ時には遅い。目が合った瞬間に、東雲の上から天井の破片が落ちる。剥き出しになった骨組みの一部が、東雲に襲いかかった。
「宵一さん!宵一さん!!」
全身の動かし方を忘れたかのように、明乃が下手くそに瓦礫から這いずり出て駆け寄る。東雲の手を掴めば、脈打っていることに安心する余裕もなく、明乃は叫び続けた。先程までとは別人のように、無表情であった顔は崩れ、焦りに手が汗ばんだ。
血の匂いがする。感じ取った時には思考が停止していた。見るのが怖い。しかし東雲の安否を確認する為、明乃は視線を落とす。
間一髪で直撃は避けたものの、東雲の横腹から大量の血液が流れ出していた。
目を見開き、明乃が更に狼狽する。怒りなのか、悲しみなのか、何とも付かぬ感情が溢れかえるようだ。
「ああ……っ!宵一さん!宵一さん……!」
「大丈夫だから落ち着け!」
声を上げると痛みに身体が軋む。しかし東雲はそう言って、なんとか膝をつき立ち上がろうとするも、力が入らず崩れ落ちる。額から嫌な汗が流れるのを感じながら、東雲は明乃を見た。
涙が溜まった目に、東雲の姿が映っている。強気に笑って見せても、明乃の顔は晴れなかった。
「……大丈夫だって言ってるだろ。明乃、まだやれるな?」
「宵一さん!ねえ!帰ろうよ、お願いだから、逃げようよ!もう無理だよ!こんな怪我、死んじゃうよお!」
「馬鹿言え、こんなところで引き下がれるか!」
「もうエンターテイメントなんて馬鹿なこと言ってる場合じゃないの、わかるでしょ!?嫌って言うなら担いで帰る!!引きずってでも、絶対に……」
強くなるね、と。明乃が最初に言ったのはいつだったか。それはきっと怪盗としてではないのだろうと気付きながら、東雲はぶっきらぼうにおう、と返事をした。
泣く事を覚えてから、泣かないようにと我慢するようになるまで、どれだけの時間を要しただろうか。東雲にとっては、明乃の表情が変わることが何よりの安心となるというのに、明乃はそれを裏返すかのように泣かなくなった。
「明乃」
頭を撫でてやる。安心させてやらなければと思った。
「わかってねえな、こういう時だからこそエンターテイメントなんて馬鹿なこと言うんだよ。此処で大逆転したら超絶かっこいいだろうが」
東雲 宵一は思い出していた。初めて恐怖に負けたときのことを。あの時動かなかった身体に、今爪を突き立てた。あの日の悔しさを、あの日の無力さを、あの日感じた全てを今ここで振り払う。あの男への憧れも、自分に対する怒りもすべて。そして今度は、今度こそは、自分という存在を確立するかのように。
「弱気になるな。俺はお前がいなきゃ弱っちい怪盗だが、お前がいればなんでもできる」
明乃という存在を、際立たせる為の道具でも、なんでもいい。ただ、明乃が自分で道を選べる日が来たのなら、そんなに嬉しいことはないと思う。
「そう信じて今までやってきたんだ。お前もそうだろ」
明乃が静かに頷いた。
「俺のためじゃなくていい、自分のしたいことをしろ。お前がどうしたいのか、ちゃんと胸に手当てて考えてみろ!こんなところで引き下がって、それでほんとにいいのかよ!」
そして遂に、涙が溢れる。しかし明乃はそれを力強く拭って、顔を上げた。
「……ムカつくよぉ、負けたくないよ、勝ちたいよ!!逃げたくなんかない、こんなところで、止まりたくないよ!!」
気持ちを汲み取るかのように。もしくは、共鳴するかのように。
東雲 宵一は笑う。強がりでもなんでもない、心の底から、この状況を愉しんでいる笑みだ。
「この展開、最高だぜ!」




つづく!

新章 弐

緊張している。物事を前にしてそう思うのは久しぶりだった。いや、初めてかもしれない。今まで随分と適当に過ごしてきたものだから、宮山 紅葉は緊張という言葉とそれなりに遠い生活を送っていた。
だから緊張している、という事実を飲み込もうとするほど、余計に胸が高鳴る。それは、初めて怪盗を前にした時とは別の高鳴りだった。
あの時のような高揚感は少なく、不安だけが募っている。それに反して呑気にお菓子を貪る木野宮 きのみは、帽子の先にあるリボンを不可思議にもぴょこぴょこと動かしながら宮山を見ていた。
予告状に記載されていた時間の当日。ネックレスの持ち主である資産家に予告状の件を伝え、入れるようにしてもらったのは昨日のことだ。彼が運良く警察嫌いであったことにより、木野宮一行はなんなくホールでの警備に参加することができた。
見渡す限りの監視カメラ。それにおびただしい数の警備員。実際にこういう現場に来るのは初めての宮山でも、金の力を感じざるを得ない。
一体こんな状況で、どうやって件の物を盗むというのか。宮山は脳を回転させ続けているが、緊張がそれを阻んで上手く思考を纏めきれない。
別のルートから侵入すると言った東雲と明乃は、打ち合わせ通りに行けば黒堂 彰が来るであろう時間と重なるようにホールに辿り着くはずだ。その途中で彼女と会ったら連絡が来る手筈になっている。
チラリと木野宮を見る。相変わらずの何も考えていなさそうな顔だ。まるで、あの日の事が夢だったかのように思う。
木野宮との出会いは、彼女の父親を通してのものだった。彼と木野宮を見守ることを約束し、宮山は今彼女と毎日を過ごしている。
そこにあるのは、娘を心配する父親と、純粋に父親に憧れた少女だけであると、全く疑ってこなかった。
いや、どうして疑えよう。彼女の父は世に探偵ブームを巻き起こした程の名探偵で、彼を知らない人間などひとりもいない程だ。そんな彼が、実は怪盗と手を組んで八百長をしていた、なんて事実をすぐに受け入れられるわけがない。
果てに木野宮はそれを知っていた上で、探偵になりたいと言っていたのだ。彼女の中に渦巻いている、父親に対する失望や疑念は尽きないだろう。その思いに、どんな感情が乗せられているのかを宮山は知らない。しかし軽くないことはわかる。だけどそんなの、一言も言ってくれなかったじゃないか。
今も夢を見ているようだと再度思う。何が真実で、何が嘘なのか。木野宮に問いただすことはできるかもしれないが、それでは信用を失うだけだとも思う。
いっそ無神経に聞いてしまえたらいいのに。
そう思った直後のことだった。隣に立っていた壱川が何かを察したのか、駆け出した瞬間である。
視界が真っ白になる。煙幕であると気付くのに時間はかからなかったが、しかし理解するよりも早く風が巻き起こる。同時に煙がピンク色に染まっていく。何処かで爆発のような音が聞こえた気がしたが、気にしている余裕はなかった。
その風は不思議な形状をしていた。ネックレスを展示しているケースと、それを中心に二重の円を描くかのように巻き起こる。
意味がわからないまま木野宮を抱き寄せ、かばうような仕草をする。
瞬間、後ろで人が倒れる音がした。次いで前から……いや、様々な方向からするではないか。見渡せば宮山の周りだけ随分と視界がクリアだが、やはりピンク色に染まった煙にホールが満たされていた。
すぐに真後ろで倒れた警備員に声をかけ、安否を確かめる。ただ眠っているだけのようだ。
「催眠ガス……」
呟いてからようやく理解する。この風は宮山と木野宮、それに壱川と水守だけを"巻き込まないように"煙を吹き飛ばしたのだと。
背筋を何かが這い上がるのを感じた。一体どうやって、そんな神業じみた事を成し遂げたのか。頭がかつてないほど高速で回転を始める。今度の高揚は、初めて怪盗を目にした時のそれと変わらない。無理難題に挑む探偵の目がそこにあった。
「ちょっと、大丈夫!?」
水守の声に頭が現実に戻ってくる。木野宮を見れば、ピンク!綺麗!と目を輝かせて元気に煙を掴もうとしていた。
次第に煙が晴れる。視界が良くなればなる程、重なるように倒れる警備員の身体が転がっているのが見えた。
そして、その少女の影も。
「こんばんは。みんな来てくれたみたいで良かった」
張り付けたかのような微笑み。端正な顔立ちが美しさを主張するが、目の奥が笑っていない。黒堂 彰。彼女はケースの上で脚を組み、静かに座っていた。
「って思ったけど、あれ?怪盗さんが足りないね。まあ、いっか。貴女がいてくれてるんだし」
視線の先には、木野宮 きのみ。宮山は思わず木野宮を抱き寄せる手に力を込めた。
「俺たちを呼び出して、何の用だ?」
壱川が冷静に口を開く。東雲たちがどんなルートで来るのかは誰も知らないが、まだ到着していないから時間を稼がなければならない。宮山もすぐに理解した。
「用? 単純だよ、勝負しようと思って。私が捕まるのが速いか、それとも私がこのネックレスを着ける方が速いか」
ね、単純でしょ。黒堂 彰は笑ってケースを指先で叩いた。
「でも残念。もうすぐにでも取れちゃうよ、こんなの。あーあ、つまんないな。本当につまんない。勝ちが確定してるゲームってやる気になる? ならないよね。こんなの一瞬で……」
「君は!」
少女が腕を上げようとする。それを見逃さなかった壱川が、何かを仕掛ける気だと気付き声を上げた。
「君は、自分の意志であの男についているようには見えなかった。何か事情があるんじゃないのか?」
水守が隙を伺いながら、しかし踏み出せずにいる。宮山も同じく、彼女の言葉を待つしかない。状況は緊迫していた。予想外に速い登場に、有無を言わさない場の支配感。全ては彼女の気分次第でどうにでもなってしまうと嫌でもわかる。
「……事情?」
少女が張り付いた笑みのまま、首を傾げた。
「……どうして木野宮を見逃したんだ。君は、助けて欲しかったんじゃないのか」
宮山が問う。少女は何も言わない。
「俺たちにはその意志がある。君が仲間になってくれるなら、そんなに心強いことはない。彼に何をされたのか、教えて欲しい。仲間にはならなくても、助けることはできるかもしれないから」
真剣な眼差しを突き付ける。宮山の本心であった。救えるものは救いたい。もしも彼女が願うなら、手を差し伸べたい。そうして平和な日常に戻れるのなら、木野宮だってそれに越したことはないと思うはずだ。
しかし。少女はそれを払いのけるかのように笑うのを辞めた。彼女は小さく何かを呟いたが、それが何かはわからなかった。
「違うよ、全然違う。聞きたい? どうして私がここにいるのか」
それでも宮山は頷いた。知るべきだと思ったからだ。そして彼女は語り出す。静かに、昨日見た夢を思い出すかのような表情で。
「私は―――」



猫猫事件帖 新章




自分の顔が、世間の一般から見てかなり良くできているのだと知ったのは随分幼い時であったように思う。しかしそれは同級生からの告白の回数でも、街で声を掛けられる回数から知るわけでもなかった。
よくある話だと思う。黒堂 彰。当時中学二年生。彼女は常に校内で注目の的だった。
男性からは人気の一方で、女性陣からはその裏返しと言わんばかりの反発を受けていた。しかしそれでもそれが気にならないのは、単に彼女たちの言う数々の悪態が僻みだと知っていたからである。
随分とつまらなかった。親から口座に送られてくる金銭がどれだけ少なかろうと、楽に生きてこれた。欲しい物は他人を通して得ることができる。反面、持っていないものと言えば充実した学校生活だとか、気の合う同性の友達とかそういうものになるのだが、それを持っていないことに対しては何の感情も得なかった。
無表情を貫けば、あらぬ噂で校内が満たされることもあった。そのどれもがただの噂でしかなかったが、少女はそれを否定もせず、ただただ一日の時間を消化するばかりの日々を送っていたように思う。
つまらなかった。目標もなく、心の底から欲しいと思うものもなかった。ただただつまらないと思う一方で、その事実に苛立ちさえ覚えていた。
「なあ、一緒に帰らないか」
声を掛けてきたのは、ひとつ歳上の先輩だった。無視してペンケースを鞄にしまう。苛立ちは増幅するばかりで、ひとつも減りはしない。
「良かったら帰りに、コンビニでも寄ろうぜ」
照れ臭そうにそう話す男に、少女は嫌気がさしていた。人を好きになるという気持ちすら見失った少女は、その好意に向き合うということを知らない。
「……ない」
「え? なんて?」
小さく呟いた言葉を反芻する。少女は鞄の中を探りながら、至って冷静に現状を把握していた。
「財布が、ない」
「奢るってそのくらい!な、行こうぜ!」
鞄の中に入っているはずの財布がない。誰かが盗んだのだろうと、すぐに察しが付いた。その人物も容易に想像が付く。クラスの中でも目立っている方の女が、いつも自分を目の敵にしているからだ。
財布を盗まれたことに対する怒りは、皆無に等しかった。なんてつまらないことをするんだろう。そればかり考えては、やはり苛立ちが募っていく。少女は取り出した携帯電話から、連絡先の一覧を開いた。
一年生の頃、まだ彼女が仲良くしようとすり寄ってきていた頃に連絡先を交換したことがある。ひとつも表情を変えずに、黒堂 彰は指先を動かした。
内容は簡潔だ。話があるので近くの公園まで来てください。これだけだった。そのまま先輩を振り切って公園まで駆け抜ける。日が沈みかけている時刻だった。
公園の遊具に座り、暗くなっていく空を眺める。何もかもがつまらなかった。何でも持っている反面で、何も持っていない。何者にもなれず、何もできない。自分がいかに溢れかえる凡人の内のひとりに過ぎないかを理解しているが故に、苛立ちを感じずにはいられない。
だけど知っている。世界とはそういうものなのだと。この世のどこを探しても、自分が思っているようなものには出会えないだろう、と。
三時間程が過ぎ、月が頂上に達する頃。公園にひとりの影が見えた。必ず来ると確信を得ていた少女は、ブランコから立ち上がり、影に向かって歩み寄る。
「ごめんね、待った?あんたより優先しなきゃいけないことがたくさんあってさあ」
やはり件の、クラスメイトであった。少女は彼女の姿を見ても、表情を変えない。ただ心の奥底で煮え立つような苛立ちだけが、彼女を支配している。
「ああ、そういえば。これ落ちてたよ、あんたの財布じゃない? 確認したけど、中身は全部抜き取られてたよ。可哀想。あんた、一人暮らしなんでしょ? これからどうやって生活すんの?」
嘲笑するかのような言葉になど、何も感じはしない。ただ、日常の退屈さが、自分の無力さが、苛立ちとなり、狂気となり、黒堂 彰を突き動かしている。
暗がりから少女が顔を出す。クラスメイトは尚も嘲る言葉を吐き続けていた。暗がりから少女の身体が出てくる。クラスメイトの顔が、徐々に青くなっていくのがわかる。
「あんた、何する気!!」
叫ぶ声など届かない。少女の手には、体育倉庫からくすねてきた金属バットが握られていた。苛立ちをぶつけられれば何でも良かった。とうに自分は限界なのだと、気付いていたのに見て見ぬ振りをしていた。
最初からこうすればよかったのだ。それで何が解決しなくとも、棒立ちの人形になどなってやる気はないのだから。
嗚呼。私はどこに行きたいのだろうか。
クラスメイトの悲鳴を聞き流しながら、腕を振り上げる。この先に待っているものが地獄だとしても、今よりはマシかもしれない。環境が変化するなら、何でも良かった。
黒堂 彰の目には、もう何も映っていなかった。
「暴力はいけませよ」
何も、映っていなかったのだ。この瞬間までは。
「ですが金銭を盗るのもいけませんね。それではただの泥棒だ」
この男が、現れるまでは。
「何……ッ」
腰が抜けたのか、クラスメイトがその場に崩れ落ちた。片手で止められた金属バットに力を込めるが、ビクともしない。少女は男を睨みつける。
随分と美しい男だった。長い白髪を束ね、白い燕尾服を纏っている。まるで漫画の主人公だと笑いたくなるが、それが様になっているから笑えない。
「放して……」
黒堂 彰が小さく呟く。男は微笑んで言われた通りに手を離した。支えを失った金属バットが地面に突き刺さる。クラスメイトに当たるすれすれのところを叩いたようで、彼女はそこで殴られたと思ったのか意識を失ってしまった。
「……誰、アンタ」
「さあ、誰でしょう。ただの通行人なのですが……信じてもらえませんかね?」
人間味がない。あまりに完成されているが故に。男に釘付けになっていると言っても過言ではなかった。彼の放つ何かが、少女を震わせている。
「本当にただ通りかかっただけですよ。偶然にも暴行事件の現場を見てしまいそうだったので、思わず止めてしまっただけですから、お気になさらず」
この男は何者なのか。一体今、何処から現れたのか。まるで気配を感じなかったし、この男が声を出すまで止められていることにも気が付かなかった。
不気味。その一言に尽きる。しかしだからこそ、少女の目に光が灯った。
「……暗い顔ですね。折角美しいのに。嗚呼、そうだ、貴女にこれを差し上げましょう」
言って、男は地面に膝をついた。何をされるのかと身構えれば、優しく手を取られ困惑する。ポケットから取り出したそれを、そっと少女の指にはめて、男は微笑んだ。
「……指輪」
中学生でもわかる。ただの指輪ではない。輪の真ん中に嵌められた大きく光るそれが、偽物の宝石ではないということも。
「とてもよくお似合いだ」
「……これ、ニュースで見た。予告状が届いて、警察が守るって」
そう、今朝のニュースで見たばかりの代物だ。巷で怪盗と呼ばれる人間が、この指輪を狙っていると。怪盗なんて、泥棒を言い換えただけだと無表情でテレビを見つめていた自分を思い返す。
彼を見ればわかる。そんなのは、ただの偏見でしかなかったのだと。
「貴方は、怪盗なの?」
「だとしたら、どうしますか」
依然、微笑んだまま彼は問う。きっと警察を呼んでも、捕まる気など一切ないのだろう。だからこんなにも悠々と、少女の前に姿を現し、顔を見せ、こうして佇んでいる。
気付けば苛立ちなど最初からなかったかのように心は晴れていた。非日常が目の前に形となって現れたことに、心が打ち震えて喜んだ。きっとこれこそが求めていたものなのだと信じて止まらなくなった少女は、泣きそうになりながら声を出す。
「私を、連れて行って」
男はしばし驚いた顔をして、それから彼女の手を離し、背を向けた。それがどういう意味なのか察しながら、しかし少女は彼の姿を目に焼き付ける。
「貴方の名前を教えて」
指輪などいらない。金も、学校も、友達もいらない。ただひとつ、欲しいものが今見えた。
男は振り返る。相変わらず、あまりに不自然なほど柔和な笑みを浮かべたまま。
「常盤、社と申します」





つづく!


新章 壱

暗がりに紛れて、少女は常に憂いていた。
憂うべきは先の見えない未来でも、どうしようもなく縋り付いてくる過去でもない。それはただ、退屈という二文字に満たされただけのこの現状だ。常に、常に黒堂 彰は嘆いていた。
欲しいものは手に入る。いつだって手の届くところにある。それを退屈だと定義付けている内に、彼女は自分が欲しているものすら見失い、路頭に迷っているような状況になった。
自分でもよく、自分のことを知っていた。いや、今となっては知っているつもりだったという方が正しいのかもしれない。
どうしてあの時、小さな探偵を見逃したのか。その答えが出ないのは、ただ自身の本音に気付きたくないだけなのか、それとも本当に気紛れだったのか。
「貴女を裏切り者、と。そう呼んでもいささか間違ってはいないという認識ですよ、私はね」
影は言う。死刑宣告のようなものだった。しかし何処か引っかかる言い方に黒堂 彰は溜息を吐く。回りくどい話し方をするのは、出会った時からひとつも変わらない。
「だったらそう呼べばいい」
冷たい声色だったが、対して影は笑っている。何が可笑しいのかと怒りに眉をひそめれば、影が立ち上がりこちらを向いた。
「私も人の子ですから。ここまで共に歩んできた人間をそうやすやすと切り離せるほど、冷たくはないつもりです」
「だったらどうするの? 私がやったように見逃す? あり得ない、貴方がそんな甘い決断をするなんて。それこそ呆れるし軽蔑する」
一体何を考えているのか。
近くで見続けても、結局はわからない。知らぬ間に踊らされ、知らぬ間に躓かされている。この常盤 社という人間の前では、誰しもがそうなってしまう。
「さあ、ひとつテストでもしましょうか。貴女は怪盗に相応しいのか?それとも、そんな私の見立ては間違っていたのか」
「……」
夜が深まれば深まるほど、常盤 社という人間は見えなくなっていく。何を考え、何をしたいのか。彼は一体、何を見ているのか。
「難しいことはひとつもありませんよ。私が指定したものを盗んでください。しかし……それだけでは簡単すぎますね。嗚呼、そうだ、こんなのはどうでしょう」
少女は今、何処に立ち、何処に向かっているのか。
「"予告状付き"で……宛先は、わかりますね?」
どうすれば、この暗がりから抜け出せるのか。



猫猫事件帖 新章




「はあ? 予告状?」
「そう、予告状」
「すっごいデジャヴを感じるんだけど……まあ、いいわ。またあのチビがなんかしようってんなら、今度こそ全力で止めてやるんだから」
水守 綾は意気込みを示すかのようにアイスティーを一気に飲み干した。平日の昼下がりの喫茶店にはあまり人気がなく、相変わらず本当に読んでいるのかわからない新聞と睨めっこしている老人と、水守と目の前の男しかいない。男の名は壱川 遵。刑事の端くれであり、自称怪盗でもある。
例の事件から連絡が減り、こうしてランチに勤しむことも少なくなったある日のことだ。壱川からの呼び出しは唐突なもので、しかし急用だと言うことも珍しいものだから思わず飛んで来てしまった。
水守は壱川の様子を見ながら、しかし平然を装って話している。これ以上悩み、じっとしているのは水守の性に合わない。いつも通りを装っていれば、そのうちそれが本当になるだろう。水守はそう考えていたのが、対する壱川は何も繕った様子はなく、正に平然とした態度で水守の前に座っていた。
あの事件を経て、少しはわかり合えたつもりだ。ほんの少しかもしれないが、距離が近くなった気もする。しかしお互いにその距離に慣れず、様子見を決め込んでいる……といった現状である。
水守は壱川の言葉を待ちながらそんな現状を整理してみて、思わず唇を少し尖らせた。壱川からの連絡が減ったのもそういうことなのだと思う。思うのだが、あまりに平然としているものだから、距離が近くなったなんていうのは思い込みなのではないかとも思う。
嗚呼、煩わしい。どうしてこの男のことで悩まなければいけないのか。
水守は大袈裟に頭を横に振って、現実へと帰ってきた。
「それが、東雲君からじゃないんだよ。ちなみに宛先は俺宛が一枚、君宛が一枚。……つまり一緒に来いってことなんだろうけど。さあ、誰からだと思う?」
「まさか……」
言われて、壱川の手元にある封筒を引ったくる。小綺麗な装飾が施された便箋の中には、日付と場所、それから可愛らしい女の子のイラストが描かれている。似顔絵だろうか。いや、推測する必要すらない。その似顔絵に似ている人物を知っているからだ。
「黒堂 彰……」
「俺も彼女からだと思っている。……というか、他にないだろうな」
壱川は相変わらず冷静に口を動かしている。しかし水守は思わず眉をひそめた。この少女にはいい思い出がない。
「……また、何か企んでるのかも。例の男が来るかもしれないし……」
言うと、壱川がこちらをチラリと見た。不安に近い感情が顔に出ていたのかもしれない。
「行きたくない?」
「そんなわけないでしょ。決着を付けられるなら、それに越したことはないし。ただ……アンタは危ないかもしれないでしょ。前だって……」
そう、前だって。一番に狙われていたと言っても過言ではないではないか。水守はそう言いたげに口を開きかけたが、閉じた。
自分が行く以上、いや、自分が行っても行かなくても彼は行ってしまうだろう。そんな確信があったが故に、無駄な忠告だと判断したのだ。
「……大丈夫だよ。君がいてくれるなら。いざとなったら助けてくれるんだろ?探偵さん」
煽るような口調だ。水守は思わずムスッとしながら、しかし彼の宣戦布告にも似た共闘の申し出に安心を覚える。
「当たり前じゃない。どっかの頼りない刑事が心配だからね」
彼女の言葉に壱川は笑ってみせた。今度こそ一緒に行こう。そう言うかのように。
「ていうか……無粋なこと聞くようなんだけど、この子の名前って本名なのかな。単純に考えたら警察でどうにかなるんじゃないの?」
「まあ、君は首を傾げるかもしれないが」
壱川が珈琲カップを置いて予告状を一瞥する。
「それも暗黙の了解ってやつだな。例え正体がわかっていても、プライベートには立ち入らない。この子の名前が本名だとして、それを調べて住所までわかったとしても、俺は行かないし検挙もしないよ。ある意味でこうやって名前をわざわざ語るのは、"ルールを破れば容赦無く叩くぞ"っていう、自信にも見えるが……」
「ふーん……」
水守は納得するわけでもなく、しかし否定もしなかった。彼の言う怪盗の秩序や暗黙の了解などを理解できるわけではないが、寄り添う努力はしてきたつもりだ。
「ところで、俺の見立てじゃこの予告状は俺たち以外にも届いていると思うんだが」
「奇遇ね、私もそう思っていたところ」
二人は笑う。立ち向かう勇気など、とうの昔に備わっているからだ。


***


「無理に行かなくてもいい」
そう言ったのは、その背丈とは裏腹にあまりにも小さく見える背中だった。
少女、木野宮 きのみは彼の背中を見て、何を思っただろうか。考えるだけで恐ろしい。軽蔑かもしれないし、呆れ果てているかもしれない。
そのどっちでも良かった。彼女にそういった感情を向けられることがどうでもいいわけではない。しかし、そのプライドを殴り捨ててでも言わざるを得なかったのだ。
探偵、宮山 紅葉は。
「また危ない目に遭うかもしれない。きのちゃん、わかっているとは思うけど、この前のことは命に関わることだったんだよ」
もしも、屋敷の瓦礫の下敷きになっていたら。もしも、あの刑事が寝返っていたら。もしも、あの怪盗たちがもっと残酷だったなら。
宮山にはわかる。彼らの言うエンターテイメントというものが。宮山もそれを追って探偵になったようなものだった。しかし、少女の命を捧げてまでそれに熱を燃やすことはできない。何故なら宮山は誰よりも常識を備えた善良な人間だからである。
だから宮山は言った。手に持った予告状を握り締めながら、軽蔑されることに恐怖を覚えながら、それでも言ったのだ。
しかし反面、彼女の決断も理解していた。それを邪魔してしまうかもしれないことも、わかっていた。
彼女が背負ってきたものを考えれば、邪魔をするのは無粋でしかない。わかっているつもりだ。それでもつまらない日常を笑っている方が、馬鹿のふりをして毎日を送る方がいいのではないかと思ってしまう自分がいた。
自分は、何になりたかったのか。
悔しさに震えながらも、宮山は言葉を待った。木野宮は、ただ宮山の背中を見つめている。
「探偵になるのは大人になってからでも遅くない」
情けない。自分で思う。故に振り向けない。あどけない少女の顔を、今は見ることができない。
しかし木野宮は、いつも通りだった。数秒ぽかんとした後に、宮山の服を引っ張って満面の笑みを見せる。
「なんで!? よこくじょー貰ったんだから行こうよ!よこくじょー!初めてもらった!!記念にかざろう!!!」
「…………きのちゃん……」
思わず溜息。そう、木野宮はこういう人間なのだと思っていたからこそ、心の何処かで杞憂であろうとも考えていたのだ。
自分の役目は、木野宮 きのみという少女を、立派な探偵にすることだ。
宮山は思い直す。それが今はすべてなのだと言い聞かせる。彼女はきっと、踏み出さなければならないのだろう。いや、そんな準備はとっくのとうに出来ているはずだ。
あとは宮山が、それに寄り添って一緒に踏み出せばいい。
「探偵VS怪盗……さいこーでしょ!?」
木野宮が笑った。宮山も笑った。不安は拭えない。しかしきっと、ここで二人で素知らぬふりをしてこの日を過ごしていたって後悔したはずだ。
だから宮山は彼女に予告状を見せた。彼女に決断して貰うために。あるいは、彼女に背中を押される為であったかもしれない。
「嗚呼……最高だよ」
行かなければならない。そんなことはわかっていたはずだ。立ち上がるべきは今なのだと、宮山は拳に力を入れる。
「行こうか、木野宮。最高の探偵になりに行こう」
例えその結末が、どれ程苦しいものだったとしても。
「助手の俺が、先生を守りますよ」
「おお!行くぞみやまくん!!ついてきたまえ!!」
「いや、まだこれ明後日の話だからね……」



***



「で、お呼出しがかかったわけか。成る程な」
東雲 宵一は静かに頷く。なるほどなるほど、と呟きながら、ストローを咥えてオレンジジュースを啜った。
東雲は冷静に物事を判断することに長けた人間だ。しかし時折熱が入ると止まらないことがある。例の事件の後、部屋に篭って発明品の数々を改良し続け、三日寝ずに明乃に怒られたのは言うまでもない。
その後は今後のことを考え、黙ることが増えた。その分蓄積した思考は、今この状況に頷く事も容易にしている。
「成る程……じゃねーんだよ!じゃねーんだよな!?」
していなかった。
「もう、宵一さん。急に立ったらみんながびっくりしちゃうよう」
「いやなんでだよ!なんで平然と探偵に呼び出されて応じちゃってるんだよ!!なんでお前ら連絡先交換してんの!? 馬鹿なの!? 危機感は捨ててきちゃったの!?」
「友達だもんね~」
「ね~」
「ね~!じゃねえよ!馬鹿野郎!!」
怒鳴る東雲を壱川がまあまあ、と宥める。一通り怒った後で、東雲は溜息を吐いて座席に座りなおした。
「……まあいい。それで、お前らのところにも予告状が来たんだろ?だからってなんで呼び出されなきゃいけねえんだよ」
腕組みをして踏ん反り返る東雲が、そんな言葉を吐き出す。明乃はそんな東雲の口元に、自分が頼んだシフォンケーキのひときれをフォークに突き刺して持って行った。東雲が仕方なく口を開くと、シフォンケーキが押し込まれる。
「君らのところにも来てるだろうと思って、宮山さんに連絡が取れるか聞いてみたんだよ。まあ、そう怒るなよ。ここじゃ俺らはただの知り合いってことで、な」
壱川の言葉に東雲が顔を顰める。
「……木野宮と僕も、当日は行くことにしました。ご丁寧に招待状まで貰ってますから、行かないのも失礼でしょうし」
「はい、みやまくんも!あーん!」
「どうせなら協力しませんか? 目的はおなひへひょほはは」
「食べながら喋るんじゃねえ」
壱川が水守を横目に見る。ふとチーズケーキを口に運ぶ寸前の水守と目が合うが、わざとらしくその一口は水守の口の中へと消えた。
「目的が同じだあ? 俺と明乃は怪盗だぜ。やることはひとつ、こんな予告状を貰ったんだ、あいつらより早く目当てのものを盗んでやるって燃えてんだよ!」
熱を隠しきれないかのように東雲が声を張り上げる。明乃はそんな東雲の口元に、自分が頼んだシフォンケーキのひときれをフォークに突き刺して持って行った。東雲が仕方なく口を開くと、シフォンケーキが押し込まれる。
「それでも組むって言うのかよ?お前らは俺たちを止めるべき立場にあること、忘れてないだろうな」
続けて東雲が煽るように言葉を吐いた。明乃はそんな東雲の口元に、自分が頼んだシフォンケーキのひときれをフォークに突き刺して持って行った。東雲が仕方なく口を開くと、シフォンケーキが押し込まれる。
「明乃ォ!!」
「えへへ、宵一さん美味しそうに食べるから、つい……」
「……同じ目的って言うけど、それって何になるわけ?」
口を挟んだのは水守だった。チーズケーキを諦めた壱川は珈琲を口に含む。いや、元よりチーズケーキが食べたいわけではないのだが。
「打倒怪盗団、ってところかな。まあ打倒って言っても難しいよねえ。でも相手がその気なんだ、乗ってやってもいいと俺は思ってるよ」
「まあ、皆んなが同じ場所に集まって、似たような目的を持ってるのは確かですからね」
「だとー!かい!とー!だん!!」
木野宮が立ち上がる。宮山がそれを頭から押さえ付けて座らせる。
「ま、それもそうね。でもあのチビ、目当てのものを盗むとかなんとか言ってるけど?」
「後で返せばいいんじゃないか?事実上守ったことにはなるだろう」
「返さねえよ?」
「そうね、わざとやりましたって言えば向こうも納得するでしょ」
「いやだから、返さねえよ?」
期日は明日。指定は郊外にあるイベント用のホールだ。金持ちが"見せびらかし"の為に展示するダイヤのネックレスは、豪邸が建つ程の値段らしい。展示会の前夜、つまり明日に盗むと予告状には書かれていた。もうタイムリミットは随分と近い。
「……まあ、仕方ねえから乗ってやるよ。だが今言った通り、俺たちはそれを盗む為に潜入する。いいな?」
「ああ、勿論だ。後で返してくれるならそれでいいさ」
「だから返さねえって言ってんだろォ!」
「残りのメンバーは現物の前で待機になるな。どんな手を使うかは知らないが、静かに持ち去って行くだけとは思えない。必ず彼女は俺たちの前に現れる。……その時がチャンスだが、例の男が現れる可能性もある」
一同が静まり返った。あの得体の知れない人間を思い出すと、なんとも言えない気持ちがせり上がってくる。まるで、あの男に対して「勝つ」という意気込みさえ封じられているような、そんな気がするのだ。
「……僕の勝手な想像ですが」
宮山が口を開いた。彼の手には壱川と同じ珈琲カップがあるが、運ばれてきた時から一滴も減っていない。
「彼女……黒堂 彰は、あの男に自らの意志で加担しているようには見えませんでした。……いや、ただの憶測ですが、まるでついて行くしか選択肢がないみたいな……」
「それには俺も同感だ。彼女が望んでアレと一緒にいるようにはあまり思えなかった。彼女が本当にあの男に加担しているのなら、木野宮さんを逃がす理由がない」
視線が木野宮に集まる。しかし木野宮は呆けた顔をして口の周りのクリームを拭っていた。
「彼女を引き剥がして、味方になってもらえば、状況は良くなるかもしれません」
宮山は続ける。壱川も頷いた。しかし東雲は相変わらず踏ん反り返って、眉間にしわを寄せている。
「そう簡単な話とは思えないけどな。そんな事するくらいなら二人まとめて叩き潰した方が早いだろ」
「まあ、簡単ではないだろうが……試せるなら試した方がいいと思わないか?余計な犠牲を払うこともなくなる」
犠牲、という言葉に宮山が目を細めた。
「俺が言ってんのはな、味方にするしないの話じゃねえよ」
黒堂 彰を思い浮かべる。何を考えているかわからない飄々とした態度。端正な顔。しかし、あの男と比べると随分と人間臭さがあるような。
「まあ、好きにしろ。俺には関係ない話だからな」
一同は静寂に戻った。しかし誰もが、内心で犠牲という言葉に敏感になっている。
例え敵であるとしても、和解できるのならそれがいいのではないか。実際、明乃と木野宮は怪盗と探偵という間柄にしてお互いを友達と言っている。
あり得ない話ではない。いや、あり得る話にする。木野宮が敵対や闘争を求めるわけがないのだから。
宮山はそう思って、静かに目を伏せた。


つづく

とある回想の放課後 壱

宮山紅葉(みややま こうよう)。彼の物語は随分と中途半端に、秋から始まった。就職活動を怠っていたとは言わないで欲しい、彼には彼なりの目標とやるべきことがある。間違ってもニートなんて呼び方はしないで欲しい。彼は彼なりに自称ではあるが職業がある。
発端はなんだったか。初めてこの世に探偵という職業があると知ったのは彼がまだ幼稚園に通っていた頃ではなかっただろうか。意味もわからず読んでいたミステリー小説に出てくる主人公がそれだった。大人びた彼はすぐに「こんな職業は小説の中だけだ」と気付いたが、それでも少なくとも探偵という職業をやっている人物が存在することに期待と希望を抱いていた。
いつだったか。世間が探偵をよく取り上げるようになったのは。同時に怪盗と呼ばれる存在たちの闘いが世間を賑わせていたのは。
メディアの特集は大抵がそれに纏わることだった。木野宮という探偵が世に顔を出し、次々と難事件を解決していると謳われた日にはもう決心していたと思う。自分は探偵になる。まあ、難事件が舞い込んでくるとは思えないが、小説なんて事務所で暇そうに珈琲を飲むところから始まるものだ。その前座であると思えば、暇に猫を探すのだって悪くはない。そう思って始めたことであった。
しかし実際は猫探しの依頼さえ来なかった。そのまま世間を賑わせた探偵は引退を宣言し、世の中は何事もなかったかのように日常へと帰っていく。つまるところ宮山は、探偵ブームに取り残された唯一の自称・探偵であった。
暇も行き過ぎると心を病ませていく。暗鬱とした気分で珈琲を飲むも、その苦味すら今は不快に感じてしまう。そんな最中にインターホンが鳴れば、誰だって期待を胸に膨らませてしまうだろう。
宮山は平静を装いながら玄関を開けた。無論、どうせ新聞や宗教の勧誘であろうということも考えてはいる。ただ、暇に限界が来た瞬間に鳴るインターホンなど、小説の導入としては完璧だった。ああ、完璧だとも。
「どちら様でしょうか」
言いながら、宮山は目を見開いた。玄関先に立っている人物は自分のよく知る人間だ。にもかかわらず目を見開いたのには理由がある。そこに立っている彼は決して宮山が出会うはずのない人物であり、宮山の想像を遥かに超えるサプライズだったからだ。
「こんにちは。少しお話をと思いまして。嗚呼、私は木野宮と申します。良ければ入れていただけませんか」
初老の男性が丁寧に頭を下げる。これが、宮山 紅葉の物語の始まりであり、しかしほんの序章に過ぎない、ただの幕間である。




猫猫事件帖
とある回想の放課後




「お話、と申されますと」
珍しく緊張に似た感情を覚えていた。それは彼が自分の憧れであり、世間を賑わせた張本人の探偵であるからだ。
探偵ファンなら、今まさにシャーロックホームズと出くわしたかのような気分で間違いないだろう。彼は幾人もの怪盗を退ける、正に小説の中の人物のような人なのだから。
そんな木野宮がわざわざ家を訪ねて来た。広告に小さく載っているこの探偵事務所もどきの連絡先を見た以外はあり得ないが、しかしこんなブームに置き去りにされたとすぐにわかるような探偵事務所に用があるとはどういうことなのか。
早く用件を聞きたくてたまらなかった。もしかしたら難事件を依頼されるかもしれないし、孤島の別荘に招待されるかもしれないし、いや、そんなことをする理由はないはずだと思いながらも胸が高鳴るのを感じる。
宮山は木野宮の言葉を待った。
「今から私は、突拍子も無いことを言うでしょう。それに驚かれるのも無理はない。しかしながら、今この時代に探偵をやっている人間というのも、早々多くはなくてね」
木野宮は穏やかな口調でそう言った。そりゃあそうだろう。探偵ブームの火付け役となった張本人でもあり、探偵ブーム鎮火の原因となった張本人でもあるのだから。宮山はなるべく冷静に言葉を待った。
「私の事はご存知だろうか」
「ええ、勿論」
宮山が返すと、木野宮は有難うと笑顔を見せた。メディアを通して見た時と何ら変わらない、善良そうな笑顔であった。
「先の引退宣言での通り、私は探偵業から足を洗いました。しかしながら、まだ未解決な問題……いや、とは言っても事件の話ではないのですが。私自身の問題がありましてな。それをどうか貴方に継いで欲しく思うのです」
「その問題、と言いますと?」
事件ではないと提言されてしまった以上、落ち込まざるを得ない。しかし宮山はそれでも続きが気になって仕方なかった。
「私には娘が一人おりましてな。遅くに生まれた子で、まだ幼い子なのですが…」
本当に突拍子も無い話だった。お父さんに憧れた結果、探偵と結婚したいと騒ぎ出した娘の為に婿探しでもしているのだろうか。そうでもなければ、ここで唐突に娘の話が出てくる意味がわからない。宮山は既に面食らった顔をしていた。が、木野宮は続ける。
「彼女は酷く探偵に憧れております。自分はすごい探偵になると言って聞く耳も持ちません。次の春に高校生になるのを機に、私が使っていた事務所を使って探偵業をするとまで」
「成る程?」
宮山は首を傾げながらもそう言った。どうやら婿探しでは無いようでひとまず安心だ。
「本当に、一度言ったことは覆さない子でして。ええ、それで貴方に…未だ探偵を営もうと思っているその志に惹かれてやって参った次第なのです。どうかうちの娘を雇ってやってはくれませんか」
つまりどういう事だ。この男は、見ず知らずの人間に娘を雇えと言いに来たのか。
いや、わからなくもない。彼が言う通り彼の引退宣言によって探偵ブームは静まり返り、今や探偵ごっこをする子供すらいなくなったような沈静化ぶりだ。ブームに乗っかって開業した同業者たちは次々看板を下げ、みんなが同じ夢でも見ていたかのようになかったことになっていく。
しかしブームに取り残された男がここに、一人いた。探偵になりたいと幼少期の頃の夢をここぞとばかりに叶えてしまったが故に、引き下がれない男が。彼はそんな宮山に、娘が一人事務所を開設するのが不安だから、引き取ってくれ、と言っているのだ。
やはりわけがわからなかった。まさか憧れの探偵から依頼が来るなんて、それだけで儲けものだがこんなとんちんかんな内容だと誰が予想できただろう?
宮山はしばらく黙り込んだ。黙り込むしかなかった。木野宮はそれを見て察するかのように声をかける。
「勿論報酬はあります。お金ではありません。一つ目は、木野宮探偵事務所の看板―――と、言いましょうか。娘が働く以上嘘もありませんし、お好きにこの名前を使っていただいても構いません」
あれだけ世間を騒がせた名前だ。その名に縋る人も出て来て、少なくとも今よりは商売繁盛に繋がるだろう。宮山は頷いた。
「もうひとつは事務所そのものを―――と言うと大袈裟ですが、あの事務所は古い家の一室を事務所用に改築していまして。あの家を好きに使ってくれて構いません。引退してから荷物もあらかた整理してますし、残っているものは好きなように使ってください。家賃も不要です。娘も入り浸ることになるでしょうから」
これは随分な好条件だった。寧ろ怪しいと言ってしまってもいいのではないかと思うほどの好条件じゃないだろうか。
宮山は思わず黙り込む。これは娘とやらが相当厄介な性格の持ち主か、性格でなくても何かしらの問題があるとか、そういうことも十分にあり得るのではないだろうか。
「返事はすぐにとは言いません。勿論、娘に会ってから決めていただいても構いません」
心を読まれているようだった。
「いえ……ですが、見ず知らずの男に娘を預けるなんて、流石に不用心ではないかと思ってですね……」
「大丈夫ですよ。貴方のこともそれなりに"調べ"ましたから。これでも元探偵ですからね、色んなツテがまだ残っているのです」
お茶目に笑う彼に感嘆してしまうが、反面知らないうちに自分のことを調べられる不快さにもゾッとする。いや、探偵とはそういう職業なのだから仕方がない。言い聞かせて、もう一度返答を考えてみた。
家賃なしの事務所付きの一軒家に、木野宮探偵事務所の看板―――例え彼の娘がどれだけ甘やかされてきたじゃじゃ馬だとしても、この二つの条件を上回る面倒さなどあるだろうか。正直、先の見えていない宮山にとっては救いに他ならない。しかし今ここで軽く返事をしてもいいような話とも思えない。
考えながら相変わらず黙っている宮山に、木野宮は察するかのように話し始めた。
「娘が探偵になりたい、と言うのは私に責任があるのではないか―――と言うのが、私の考えなのです」
「……と、言いますと?」
「私が"夢を見せすぎた"――――実際に探偵業をやられている貴方ならわかるでしょう。メディアに取り上げられ、怪盗と対決する。そんなのは今までずっと、小説の中だけの出来事だったのです」
ああ、そりゃそうだ。誰もがそう思っていたからこそ、彼の存在はミステリーファンを奮い立たせて世を探偵ブームの波で攫っていった。そんなのはよく知っている。
「だがそれを実現してしまった。故に彼女が言う探偵になりたい、の探偵とは、実にファンタジックなものだ。今も尚彼女は、幼い頃に読んだホームズに憧れる気持ちを一片も捨てずにいる。そうなれると信じている」
「ですが、仰る通り貴方がそのホームズに実際なったでしょう。それは夢物語ではなく事実なのですから、娘さんの夢には何の問題もないんじゃ……」
木野宮は哀愁の漂う笑みを見せた。何かが引っかかったが、彼には彼なりの事情があるのだろう。
「怪盗は実在します。今も尚この世の何処かに、私が捕まえた者の仲間や、―――あるいは、組織的なものが」
心が震えた。彼がそう言うのなら、そうなのだろう。幼少期の期待や希望が、今目の前に形として現れたかのような気分だった。
「夢を見せたのは私だ。だからこそ娘の夢を踏みにじる事は更にできなくなったのです。しかし遊びで終わればいいが、いずれそうはいかなくなるでしょう。彼女は私の娘に他ならない。それが何より私を不安にさせるのです」
だからどうか、彼女のそばに、と。
木野宮はそこまで言って、しばし黙った。
成る程彼の娘であれば恨みつらみを持った人間が彼女を狙わないとも限らない。何とも面白そうな話だと思う。宮山は決心していた。この話を断るのは、探偵に憧れた身分としてあほらしいにも程がある。
「娘さんに……一度会わせてください」
こうして宮山 紅葉は、木野宮 きのみと出会う序章を己で書き出す事となる。
あるいは怪盗と対決する伏線であり、あるいは怪盗と手を組む伏線にもなる。そんな大それた話となる、少し前の序章をーーー。





つづく

とある回想の平日 壱

いつからこんな風になったんだっけ。
水守 綾は部屋の中でひとり、答えの出ない質問に頭を痛めていた。
学生の頃の友人たちと遊ばなくなって久しい。たまにニュースを見てメールが来るが、詳しいことを話すわけにもいかず、結局食事に行ってもはぐらかすのに精一杯になるだけだ。
それに比べたら、あの男と食事に行くほうがずっと気楽だった。
秘密を共有する胡散臭い髭の男。あの男がいなければ、自分がテレビに映ることも、新聞に載ることも絶対になかった。
母親からの心配の連絡も、友人だった者たちからの詮索も、今は全て煩わしい。仲の良かった人たちを騙しているような気分になって、居心地が悪い時がある。
それでもあの男と食事を共にしている時だけは、いつだって等身大の自分だった。あの男が提供してきた秘密を抱えて、二人で過ごせていた。
それもなんだか今はぎこちない。あの事件があってから、連絡は来るもののどれも気を遣っているのが見え見えだ。
元あった距離感は遠く開いた。いや、もともと遠かったのかもしれない。
どんな風になりたいんだっけ。
どんな風に、なりたかったんだっけ。
水守は思い出してみる。それはまだ、今よりもっと未熟だった自分と、今よりもっと遠くにいた男の物語。




猫猫事件帳
とある回想の平日




「祈られても困る」
水守 綾は街中でひとり、呟いた。騒がしい人並みの中、しゃんと立って前を向きながら、呟いた。
傘なんて持っていないというのに降り出した雨に向かって、怒りをぶつけるかのように。
「祈られても困る……」
力のこもった手にはスマートフォン。その中に書かれている文章は、着慣れないスーツに身を包んだ水守の怒りの根源だ。
「祈られても困るってーの!!」
周りも気にせず、大声を出した。就活真っ只中の時期。水守は未だ、就職先が決まっていない。
「大体、志望動機とかお金欲しいから以外にある? 絶対ないし!働きたくないのに働くこっちの身にもなって質問しろっていうのよ!もー!」
ヒールをかつかつと鳴らしながら歩く。周りの友人はみんな決まってしまった。それも、大体の人間が第一希望で通ってしまったのだから腹が立つ。笑顔でおめでとうと言った自分を褒めてあげたい。そして、働くことへの意識が高いお前らみたいなのがいるから迷惑するのだと今すぐにでも殴りにいってやりたい。
そんな思いと裏腹に、水守は喫茶店に入った。レモンティーを頼んで、叩きつけるようにスマートフォンをテーブルに置く。
このまま決まらなかったらどうしよう。みんなにも心配されてるのに。このままじゃ笑い者になってしまう。でも働きたくはない。真面目に働くなんて考えたくもない。
そんなことを考えながら、とりあえず水を飲む。みんな、真面目すぎるのだ。もっと気楽に働いて、気楽に稼ぎたい。たまにゆっくり遊んで、趣味のひとつでもできたら丁度いい。
とにもかくにも無理せず働きたいのはそうなのだが、就職先が決まらなければなんの意味もないだろう。項垂れながら水守はメニューに目を通した。
レモン添えのシフォンケーキ。バターたっぷりのホットケーキ。いちごが乗ったソフトクリーム。どれも魅力的だ。腹が減っては戦はできぬ。水守は悩みながらも、メニューのページをめくった。
「俺はシフォンケーキがおすすめだな、甘すぎなくて食べやすいから」
そして、そんな声が頭上から降ってくる。
慌ててメニューを閉じ、顔を上げるがそこにいるのは知らない男の顔だった。なんとも胡散臭く笑う男だ。一瞬で警戒態勢に入る。ナンパか、変態か、はたまた宗教勧誘か。
「急に声をかけてすまない。席が埋まってて……よかったら相席しても?」
男は言った。これは本格的にナンパか宗教勧誘の説が濃厚だ。思いながらも水守は突然のことに断れず、どうぞ、と言ってしまった。
男は水守の前に座り、珈琲を頼む。煙草を吸っても?と聞かれ、勝手にどうぞと言えば早速火を点けた。
ゆっくりと、男は動いている。落ち着きがあって、水守が思う大人のイメージとぴったり重なる。こういう男が、営業なんかで成績一位を取るんだろう。よく見れば顔も悪くない。宗教勧誘するくらいなら、ナンパで頼む。
なんてことを考えている間にレモンティーが到着する。ついでにシフォンケーキを頼めば、男が笑った。
「こんな知らない男のおすすめを聞いてくれるのか」
「美味しいんでしょ? そんなつまらない嘘吐く程暇な訳?」
「いや、嘘じゃないよ。君面白いなあ」
嘲笑されているようで、少しムッとする。が、そんなのもレモンティーの香りに一瞬で流されてしまった。カップに手をかけたところで、男の前に珈琲が置かれる。
「俺は壱川 遵、これでも刑事の端くれをやっている者だ」
「警察……?」
「警戒しないでくれ、此処に座ったのは偶々だよ。別に取り調べじゃない」
「ふーん……」
警察、か。ますます胡散臭いな。と壱川を上から下まで見る。彼は困ったように眉を下げて笑った。
「……水守 綾。水を守るに、アヤって書いてリョウ」
「珍しい名前だ」
「よく言われる」
茶店でこういう出会いも珍しい。話しかけられて近所のおじいちゃんくらいだ。だが、まだ宗教勧誘かナンパかもしれないという懸念は抜けない。
「就活中?」
「どうしてわかるの」
「刑事の勘ってやつかな」
「なにそれ胡散臭」
「嘘だよ。ほんとはさっき叫んでるところを見ちゃって」
顔が赤くなる。冷静になると恥ずかしいことをした、と思いながら縮こまった。
「就活難ってやつか」
「まあ……そう。そうね。まだ何処も受かってない。アタシの何が悪いんだかよくわかんないし、面接とか得意じゃないからなのかな、やっぱり」
水守の前にシフォンケーキが置かれる。フォークを手に持ちながら水守は肩を落とした。
壱川が笑う。何が面白いんだ、と突っかかる元気もなかった。
「別に頑張って働きたいわけじゃないし、働きたいところもないから……刑事って勉強とか大変だったでしょ? そんな熱量もないし、アタシにはね」
シフォンケーキが口に入る。全てを救ってくれるような気がした。ほんのり甘酸っぱいレモンが舌を刺激する。
「成る程」
壱川は砂糖もミルクも入れず、珈琲に口をつけた。
「就職先、紹介してあげようか」
来た。ネズミ講パターンだったか。水守は構える。
「そう警戒しないでくれ。確かに君が思うような退屈な事務仕事ではないが…そうだな、営業に近い。君がすることは営業だ」
「風俗とかいうオチなら受け付けてないんだけど」
「俺、そんなに酷い男に見える?」
相変わらず、壱川はへらへらと笑っている。
正直怪しさで言えば右に出る者はいないだろう。だがそうも言ってられない。水守は心の余裕もメールボックスのゴミ箱へ入れてしまったのだ。思わず耳を傾ける。
「……探偵ってさ、よくあるじゃない。小説とか、ドラマとかで。猫を探したり、殺人事件を解決したりね」
「…………探偵」
「そう。ドラマの花形だ。犯人を指差して、高らかに宣言する。魅力的じゃない?」
「別に、現実にそんな探偵なんているわけないし。そのくらいの線引きはアタシも…」
一体何の話だ。一体どういうことなのか。気付けばペースに乗せられている自分に腹が立つ。なのにこの男の言葉に、何故か耳を傾けてしまう。
「なってみない?探偵」
「ちょっと意味がわからないんですけど」
壱川は懐から手帳を取り出した。警察手帳だ。本物を見るのは初めてだが、おもちゃでないことはわかる。
「俺直属の探偵が欲しい。今は詳しく言えないが、俺には目立てない理由がある。だから俺の代わりに事件を解決する"ふり"をして欲しい。君は犯人を指差してくれればそれでいい」
「……成る程、それで営業ね。怪しい勧誘以外の何者でもないけど」
「探偵としての報酬はそのまま君が受け取ってくれて構わない。頼みごとがあればその都度俺からも出すよ。月給に換算すれば、その辺の企業より美味しいとは思うんだけど」
「……ますます怪しい。そんな美味い話、すぐに乗っかれるわけないじゃない」
「それもそうだな」
呑気に笑う壱川に首を傾げる。この男は、一体何がしたいのか。
それと、目立てない理由。それは一体、なんなのか。
「デメリットもあげようか。場合によっては君は世間に注目されることにもなる。…少し前に話題になっていた探偵を知っているか?」
「……ああ、ニュースでよく話題に出てた…というか、引退したって最近も騒がれてたわね」
「そう、ああいう風になるかもしれない。君はマスコミに追われるかもしれないし、危険も付き纏うだろう。だから"オススメ"はしないよ。正直ね」
「…………」
この男の言葉は危険だ。なんとなくそう思う。このまま乗せられてしまいそうな自分がいることに、もうとうに気付いている。だが何故だろう、平凡な日常に突き刺さる言葉ばかり並べられて、笑わない方がおかしい気すらする。
「……まあ、ダメだよな。わかった上での玉砕だ。ダメなら今日のことは忘れて……」
「乗った」
上等だ。つまらない企業に頭を下げて入れてもらうくらいなら。
「……うん?」
「その話に乗るって言ったの」
「……俺が言うのもなんだけど、正気は保ててるか、水守さん。怪しいことは承知の上だし、言った通りオススメは……」
「はあ?誘っておいて何それ。乗ってやるって言ってんのよ。ただし本当にヤバくなったら逃げるし、アンタのこともぶん殴るから」
壱川は驚いたような顔をした後、盛大な笑った。こいつの思惑にハマってしまったのか、それとも本当に意外な返答だったのか。
「やっぱり面白いなあ。本当にいいんだな?引き返せなくなるような事情が、此方にもあるんだが」
「上等じゃない、この堅苦しいスーツが脱げるなら何処にでも行くわよ、アタシはね」
「そう、じゃあ」
これは探偵の物語。
「早速、最初の仕事に取り掛かろうか」
探偵と、胡散臭い刑事紛いの男の物語。



猫猫事件帳
とある回想の平日

とある回想の夜 弐

ずっと引っかかっていた。毎日毎晩、眠る前にあの子供の姿が目に浮かぶ。
背が高い方とは言え、あどけない顔が呆然とこちらを見つめている目が、突き刺してくるかのような痛みとなって頭の中に現れる。
東雲 宵一は、釈然としないまま今日を迎えた。
怪盗として、人間としての人生が大きく変わる、今日という日を。



猫猫事件帳 新章
とある回想の夜 弐



東雲が絵画を盗んだことは、一週間経っても新聞の見出しにはならなかった。それ自体が遺憾なのだが、それ以上に目を引くニュースで世間は賑わいを見せている。
盗みに入った家の家主が、自身の経営する病院にて不正が発覚。即日逮捕された、というニュースだ。
どうも、気分は良くなかった。
普段の東雲なら、天誅を下してやったと言わんばかりに高笑いをしつつも、ニュースの見出しになれなかったことに文句を言う場面だ。
しかしずっと気がかりなことがある。
手元の懐中時計を開いたり閉じたりしながら、東雲は呆然としていた。何度見ても、よくできた造りだ。値段もそれなりにするだろう。外側には製作者かブランド名か、はたまた持ち主の名前か、Y・Hと彫られている。
落ち着きながらも煌びやかな装飾は、間違っても子供が持つべきようなものではなかった。
「もうすぐ、これもとられちゃうから」
子供が言っていた言葉を思い出す。あの子供はもしかして、自分の親が不正を働き、捕まることを知っていたのではないだろうか。
病院の院長ともなる人物が捕まった後、その家族がどうなるかなんて想像もしたくない。だが、想像してしまうのだ。あの子供が言ったそれが、どういう意味を持っているのか。
東雲は懐中時計を閉じ、懐にしまった。勿論絵画を返してやる気はない。一度盗ったものは自分のものだ。しかしこれは違う。これは盗んだものではないし、東雲のものでもない。
偽善と言われればそれまでだ。悪党がしなくてもいいことをしようとしている。
わかっていて東雲は、言い訳もせずに夜の街を跳んだ。


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暗くなった街の中でも、一等暗く感じる場所がある。それがあの屋敷だ。まだ人が起きていてもおかしくない時間だというのに電気も点けず、物音や人が居る気配もしない。
東雲は嫌な予感に眉を寄せながら、前と同じ侵入経路で難なく家に入った。
最低限の警戒を怠らないように、と自分に言い聞かせても、心の何処かでそんなものは不要だと語りかける自分がいる。
この屋敷にはもう誰もいない。そんな気がしていた。
暗い廊下の影が、まるで東雲の脚を掴み、そのまま引きずっているかのように感じる。あの子供がいなければ、それはそれでいいのだ。この懐中時計は貰う。それでこの話は終わる。
だけど、もしもいたらどうする?
どうもしない、これを返して、それで終わりだ。
自問自答が苦しい。「嫌な予感」に心拍数が上がっていくのを感じる。気のせいか埃臭くなった屋敷の階段を降り、ロビーに出る。しかし誰も見当たらない。豪華なシャンデリア紛いの照明は、それごと何処かに行ってしまったらしい。ろくに辺りを見渡せない程、屋敷は暗闇を抱いていた。
ドコデモヌキアシ君八号を出す。屋敷全体をスキャンしてみれば、東雲の「嫌な予感」が一つの赤色の点で表示されている。
二階にある、やたらと広い部屋だった。東雲が借りたマンションのリビングとさほど変わらない程の大きさだ。
東雲は抜き足を辞め、階段を上った。長い廊下の先に、件の部屋がある。試しに廊下の電気をつけようと試みるが、電気はもう通っていないらしい。明かりはつかなかった。仕方なく暗い廊下をまた歩けば部屋が見えてくる。部屋の扉には、可愛いいちごの飾り付けがしてあるプレートがかけられている。
ローマ字で、あけの。
そう書かれていた。それが、あの子供の名前なのだろう。東雲は意を決して扉を開けた。ただ、この懐中時計を返す為に。
「おい、入るぞ」
大きすぎるベッドが、埃と共に揺らめいた。
クマのぬいぐるみが床にひとつ。それ以外は何もない。違和感を覚えながら、東雲はベッドの隣へと足を進めた。
「おい……」
予想通り、懐中時計を渡してきた子供がそこにいた。ベッドに寝そべり、ちらりとこちらを見上げている。
前に見た時より髪はボサボサになっているし、パジャマもくたくただ。どうして、と言う前に、子供…あけのは起き上がった。
何度も瞬きをして、東雲を見ている。
「……サンタさん?」
「クリスマスはもう終わっただろ。いや、そんなことはどうでもいい。これを返しにきた、それだけだ」
懐中時計を突き出してやる。あけのはそれを見て、呆然としていた。
前より痩せた気もする。そもそも、こんな時間に親はどこに行ったのだろうか。父親は捕まったが、母親はいるはずだ。埃臭い部屋といい、物のなくなりようや電気がついていないのもおかしい。
この子供が、こんな風になっていることも。
推測は簡単だった。しかし東雲は、その事実から目を背けるかのように懐中時計を持つ手をあけのに更に近付けた。
早く、ここから立ち去りたかった。嫌な予感が的中する前に。
「……もういらない」
あけのが言う。なんだそりゃ、と肩を落としながら、東雲はベッドの傍に座った。
早くここから立ち去りたい。だが、それでいいのだろうか。
やはり悪党がする事ではない。しかし、東雲は悪党になりたくて怪盗になったわけではなかった。それを忘れるな、と自分に言い聞かせる。一度飲み込んだ言葉を、東雲はゆっくりと吐き出した。
「……親はどうした」
「おとうさんは、悪いことしたから連れていかれたの」
「母親は」
「おかあさんは……」
あけのは、東雲の目を見た。決して縋るような目でもなく、望むような目でもなかった。
「どこかに、行っちゃった」
それだけだった。あけのはようやく懐中時計を受け取り、指でそれを撫でた。
聞かなくても、わかっていたことだったと思う。
父親が捕まり、釈放金や賠償金も含め、払うべき金は死ぬ程あっただろう。母親はそれを見かねて、この子供を置いて何処かに去ってしまったのだ。家の物は母親が売ったのかもしれないし、差し押さえられたのかもしれない。とにかくあけのは、一人此処で一週間……もしくは、それ以上の期間を過ごしていたに違いなかった。
東雲は自身の頭を乱雑に掻いた。
もしもあのタイミングで、あの絵画を盗まなかったら。そんな不毛なことを考えたのだ。
そしたらあの絵は、こいつの母親が売り払ったかもしれない。その金があれば、こいつを連れて行くこともできたかもしれない。
もしもあのタイミングで、あの絵画を盗まなかったら…
「オニーサンは、泥棒なの?」
「あ? 怪盗と言え、怪盗と」
「かいとう」
「そうだ、お前も見たとおり、俺があの絵を盗んだ」
あけのはそっか、と言った。責める言葉も何もなかった。
謝るべきか、東雲は考えていた。謝る必要があるのかもわからない。絵画があったところで、この子供は置き去りにされたかもしれないのだから。
「何でも盗む?」
「嗚呼、気に入ったもんはな」
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「は?」
あけのはやはり、縋るような目も、望むような目もしていなかった。
「私のことも連れて行って」
「はあ!?」
思わず立ち上がれば、埃が舞う。あけのは力ない手で東雲の服を掴んだ。
「連れて行って」
「お前なあ……」
人攫いなんて……と、言おうとして考える。このまま此処に、この子供を置いて行ったとしてだ。その後、こいつはどうなるんだろうか。
警察の保護や父親の帰還が早いとは限らない。ましてや、今でさえこんな状況なのだ。
母親が帰ってくるかもわからない。こいつは此処でひとり、ただずっと待っているだけになる。
「いっぱいお手伝いするから」
「……そう言われてもな」
あけのは手を離さない。振りほどこうと思えばいつでもできる。それでも東雲はそうしなかった。できなかった。ありもしない負い目を、この子供に感じている。
「もう、この家には誰も帰ってこないの。だから私も帰らない」
意味は、よくわからなかった。だが、なんとなくあけのの言葉が突き刺さる。東雲も、そんな気がしている。
「連れて行って……」
結局、答えなんてものはひとつしかないのだ。選択肢なんてものは、最初から用意されていなかった。
東雲はぼさぼさになったあけのの髪を撫でた。今更、人攫いも同じだと思うしかない。
ひとつの命が潰える可能性を見過ごすより、怪盗として、自分の矜持を貫く方がまだましだ。
気付けば夜を駆けていた。やたらと明るい月に姿を晒されながら、それでもそれを喜ぶあけのに抗えず、身も隠さず駆けた。
普通に生きて、普通に大人になったら解放してやればいい。手伝いなんて不要だ、ただ、普通に暮らせるようにしてやればそれで。
そう、思いながら。


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「宵一さん、これ壊れちゃって」
「どれだ」
明乃が差し出した手に、東雲が顔を寄せる。手の中からはくすんだ色の懐中時計が出てきた。
申し訳なさそうに笑う明乃をよそに、東雲の顔が曇る。ふんだくるようにそれを貰い受けて、早速細かいパーツ用の工具を探した。
「時計なあ……専門の人間に直してもらったほうがいいんだろうが……これが何処の誰が作って、何処で売ってる時計かもわからないんじゃな」
「町の時計屋さんだったとは思うんだけど……うーん……あんまり覚えてないなあ。一緒に買いに行ったんだけど」
何処だったかな?と明乃が首を傾げる。東雲は背を向け、パーツを分解しながらやはり眉を寄せた。
明乃の両親がどうなったのか、東雲は知らない。明乃も知らない。今になって調べることもできるが、明乃が捜索されていないこと自体がその答えとなっているからだ。
不必要な情報だと勝手に判断するのもどうかと悩んでいたこともあった。だが、明乃自身、その話をしたことはない。
明乃も、気付いているのだろう。もしくは、東雲も知らない何かがあるのかもしれない。
詮索はしなかった。それこそ不要だ、と思う。
此処にいるのは、あの時ボロボロになっていた子供ではない。東雲 宵一の相棒にして怪盗、明乃だ。
思っていた以上の身体能力や洞察力は結果的に東雲を助ける形となった。そしてそれが普通の生活とかけ離れているとしても、明乃自身なんの不満もないというのだからもういいだろう。
「ほら、動くようにはなったぞ」
「わあい!ありがとう!お守りみたいなものだから、動いてないとなんとなく不安で……」
いや、本当にいいのだろうか。
この道をこのまま行って、それでいいのだろうか。明乃が今こうしているのは、自分のせいである他にないというのに。
巻かれた包帯が視界に入り、思わず目を逸らしてしまった。誰のせいで、なんていうのはそれこそ不毛だ。明乃が選んだ道なのだから、口出しすることは間違っている。はずだ。
「宵一さん宵一さん」
「なんだよ」
ただ、前より笑うようになった。感情が表にたくさん出るようになった。友達ができた。料理が上手くなった。趣味が増えた。
「これでまた、頑張れるよ!」
それ以上に望むものは、今は何もない。
「おう。そうだな」
だから東雲 宵一は、今日も相棒とこの部屋で暮らしていく。




猫猫事件帳
とある回想の夜