とある回想の平日 壱

いつからこんな風になったんだっけ。
水守 綾は部屋の中でひとり、答えの出ない質問に頭を痛めていた。
学生の頃の友人たちと遊ばなくなって久しい。たまにニュースを見てメールが来るが、詳しいことを話すわけにもいかず、結局食事に行ってもはぐらかすのに精一杯になるだけだ。
それに比べたら、あの男と食事に行くほうがずっと気楽だった。
秘密を共有する胡散臭い髭の男。あの男がいなければ、自分がテレビに映ることも、新聞に載ることも絶対になかった。
母親からの心配の連絡も、友人だった者たちからの詮索も、今は全て煩わしい。仲の良かった人たちを騙しているような気分になって、居心地が悪い時がある。
それでもあの男と食事を共にしている時だけは、いつだって等身大の自分だった。あの男が提供してきた秘密を抱えて、二人で過ごせていた。
それもなんだか今はぎこちない。あの事件があってから、連絡は来るもののどれも気を遣っているのが見え見えだ。
元あった距離感は遠く開いた。いや、もともと遠かったのかもしれない。
どんな風になりたいんだっけ。
どんな風に、なりたかったんだっけ。
水守は思い出してみる。それはまだ、今よりもっと未熟だった自分と、今よりもっと遠くにいた男の物語。




猫猫事件帳
とある回想の平日




「祈られても困る」
水守 綾は街中でひとり、呟いた。騒がしい人並みの中、しゃんと立って前を向きながら、呟いた。
傘なんて持っていないというのに降り出した雨に向かって、怒りをぶつけるかのように。
「祈られても困る……」
力のこもった手にはスマートフォン。その中に書かれている文章は、着慣れないスーツに身を包んだ水守の怒りの根源だ。
「祈られても困るってーの!!」
周りも気にせず、大声を出した。就活真っ只中の時期。水守は未だ、就職先が決まっていない。
「大体、志望動機とかお金欲しいから以外にある? 絶対ないし!働きたくないのに働くこっちの身にもなって質問しろっていうのよ!もー!」
ヒールをかつかつと鳴らしながら歩く。周りの友人はみんな決まってしまった。それも、大体の人間が第一希望で通ってしまったのだから腹が立つ。笑顔でおめでとうと言った自分を褒めてあげたい。そして、働くことへの意識が高いお前らみたいなのがいるから迷惑するのだと今すぐにでも殴りにいってやりたい。
そんな思いと裏腹に、水守は喫茶店に入った。レモンティーを頼んで、叩きつけるようにスマートフォンをテーブルに置く。
このまま決まらなかったらどうしよう。みんなにも心配されてるのに。このままじゃ笑い者になってしまう。でも働きたくはない。真面目に働くなんて考えたくもない。
そんなことを考えながら、とりあえず水を飲む。みんな、真面目すぎるのだ。もっと気楽に働いて、気楽に稼ぎたい。たまにゆっくり遊んで、趣味のひとつでもできたら丁度いい。
とにもかくにも無理せず働きたいのはそうなのだが、就職先が決まらなければなんの意味もないだろう。項垂れながら水守はメニューに目を通した。
レモン添えのシフォンケーキ。バターたっぷりのホットケーキ。いちごが乗ったソフトクリーム。どれも魅力的だ。腹が減っては戦はできぬ。水守は悩みながらも、メニューのページをめくった。
「俺はシフォンケーキがおすすめだな、甘すぎなくて食べやすいから」
そして、そんな声が頭上から降ってくる。
慌ててメニューを閉じ、顔を上げるがそこにいるのは知らない男の顔だった。なんとも胡散臭く笑う男だ。一瞬で警戒態勢に入る。ナンパか、変態か、はたまた宗教勧誘か。
「急に声をかけてすまない。席が埋まってて……よかったら相席しても?」
男は言った。これは本格的にナンパか宗教勧誘の説が濃厚だ。思いながらも水守は突然のことに断れず、どうぞ、と言ってしまった。
男は水守の前に座り、珈琲を頼む。煙草を吸っても?と聞かれ、勝手にどうぞと言えば早速火を点けた。
ゆっくりと、男は動いている。落ち着きがあって、水守が思う大人のイメージとぴったり重なる。こういう男が、営業なんかで成績一位を取るんだろう。よく見れば顔も悪くない。宗教勧誘するくらいなら、ナンパで頼む。
なんてことを考えている間にレモンティーが到着する。ついでにシフォンケーキを頼めば、男が笑った。
「こんな知らない男のおすすめを聞いてくれるのか」
「美味しいんでしょ? そんなつまらない嘘吐く程暇な訳?」
「いや、嘘じゃないよ。君面白いなあ」
嘲笑されているようで、少しムッとする。が、そんなのもレモンティーの香りに一瞬で流されてしまった。カップに手をかけたところで、男の前に珈琲が置かれる。
「俺は壱川 遵、これでも刑事の端くれをやっている者だ」
「警察……?」
「警戒しないでくれ、此処に座ったのは偶々だよ。別に取り調べじゃない」
「ふーん……」
警察、か。ますます胡散臭いな。と壱川を上から下まで見る。彼は困ったように眉を下げて笑った。
「……水守 綾。水を守るに、アヤって書いてリョウ」
「珍しい名前だ」
「よく言われる」
茶店でこういう出会いも珍しい。話しかけられて近所のおじいちゃんくらいだ。だが、まだ宗教勧誘かナンパかもしれないという懸念は抜けない。
「就活中?」
「どうしてわかるの」
「刑事の勘ってやつかな」
「なにそれ胡散臭」
「嘘だよ。ほんとはさっき叫んでるところを見ちゃって」
顔が赤くなる。冷静になると恥ずかしいことをした、と思いながら縮こまった。
「就活難ってやつか」
「まあ……そう。そうね。まだ何処も受かってない。アタシの何が悪いんだかよくわかんないし、面接とか得意じゃないからなのかな、やっぱり」
水守の前にシフォンケーキが置かれる。フォークを手に持ちながら水守は肩を落とした。
壱川が笑う。何が面白いんだ、と突っかかる元気もなかった。
「別に頑張って働きたいわけじゃないし、働きたいところもないから……刑事って勉強とか大変だったでしょ? そんな熱量もないし、アタシにはね」
シフォンケーキが口に入る。全てを救ってくれるような気がした。ほんのり甘酸っぱいレモンが舌を刺激する。
「成る程」
壱川は砂糖もミルクも入れず、珈琲に口をつけた。
「就職先、紹介してあげようか」
来た。ネズミ講パターンだったか。水守は構える。
「そう警戒しないでくれ。確かに君が思うような退屈な事務仕事ではないが…そうだな、営業に近い。君がすることは営業だ」
「風俗とかいうオチなら受け付けてないんだけど」
「俺、そんなに酷い男に見える?」
相変わらず、壱川はへらへらと笑っている。
正直怪しさで言えば右に出る者はいないだろう。だがそうも言ってられない。水守は心の余裕もメールボックスのゴミ箱へ入れてしまったのだ。思わず耳を傾ける。
「……探偵ってさ、よくあるじゃない。小説とか、ドラマとかで。猫を探したり、殺人事件を解決したりね」
「…………探偵」
「そう。ドラマの花形だ。犯人を指差して、高らかに宣言する。魅力的じゃない?」
「別に、現実にそんな探偵なんているわけないし。そのくらいの線引きはアタシも…」
一体何の話だ。一体どういうことなのか。気付けばペースに乗せられている自分に腹が立つ。なのにこの男の言葉に、何故か耳を傾けてしまう。
「なってみない?探偵」
「ちょっと意味がわからないんですけど」
壱川は懐から手帳を取り出した。警察手帳だ。本物を見るのは初めてだが、おもちゃでないことはわかる。
「俺直属の探偵が欲しい。今は詳しく言えないが、俺には目立てない理由がある。だから俺の代わりに事件を解決する"ふり"をして欲しい。君は犯人を指差してくれればそれでいい」
「……成る程、それで営業ね。怪しい勧誘以外の何者でもないけど」
「探偵としての報酬はそのまま君が受け取ってくれて構わない。頼みごとがあればその都度俺からも出すよ。月給に換算すれば、その辺の企業より美味しいとは思うんだけど」
「……ますます怪しい。そんな美味い話、すぐに乗っかれるわけないじゃない」
「それもそうだな」
呑気に笑う壱川に首を傾げる。この男は、一体何がしたいのか。
それと、目立てない理由。それは一体、なんなのか。
「デメリットもあげようか。場合によっては君は世間に注目されることにもなる。…少し前に話題になっていた探偵を知っているか?」
「……ああ、ニュースでよく話題に出てた…というか、引退したって最近も騒がれてたわね」
「そう、ああいう風になるかもしれない。君はマスコミに追われるかもしれないし、危険も付き纏うだろう。だから"オススメ"はしないよ。正直ね」
「…………」
この男の言葉は危険だ。なんとなくそう思う。このまま乗せられてしまいそうな自分がいることに、もうとうに気付いている。だが何故だろう、平凡な日常に突き刺さる言葉ばかり並べられて、笑わない方がおかしい気すらする。
「……まあ、ダメだよな。わかった上での玉砕だ。ダメなら今日のことは忘れて……」
「乗った」
上等だ。つまらない企業に頭を下げて入れてもらうくらいなら。
「……うん?」
「その話に乗るって言ったの」
「……俺が言うのもなんだけど、正気は保ててるか、水守さん。怪しいことは承知の上だし、言った通りオススメは……」
「はあ?誘っておいて何それ。乗ってやるって言ってんのよ。ただし本当にヤバくなったら逃げるし、アンタのこともぶん殴るから」
壱川は驚いたような顔をした後、盛大な笑った。こいつの思惑にハマってしまったのか、それとも本当に意外な返答だったのか。
「やっぱり面白いなあ。本当にいいんだな?引き返せなくなるような事情が、此方にもあるんだが」
「上等じゃない、この堅苦しいスーツが脱げるなら何処にでも行くわよ、アタシはね」
「そう、じゃあ」
これは探偵の物語。
「早速、最初の仕事に取り掛かろうか」
探偵と、胡散臭い刑事紛いの男の物語。



猫猫事件帳
とある回想の平日