とある回想の放課後 壱

宮山紅葉(みややま こうよう)。彼の物語は随分と中途半端に、秋から始まった。就職活動を怠っていたとは言わないで欲しい、彼には彼なりの目標とやるべきことがある。間違ってもニートなんて呼び方はしないで欲しい。彼は彼なりに自称ではあるが職業がある。
発端はなんだったか。初めてこの世に探偵という職業があると知ったのは彼がまだ幼稚園に通っていた頃ではなかっただろうか。意味もわからず読んでいたミステリー小説に出てくる主人公がそれだった。大人びた彼はすぐに「こんな職業は小説の中だけだ」と気付いたが、それでも少なくとも探偵という職業をやっている人物が存在することに期待と希望を抱いていた。
いつだったか。世間が探偵をよく取り上げるようになったのは。同時に怪盗と呼ばれる存在たちの闘いが世間を賑わせていたのは。
メディアの特集は大抵がそれに纏わることだった。木野宮という探偵が世に顔を出し、次々と難事件を解決していると謳われた日にはもう決心していたと思う。自分は探偵になる。まあ、難事件が舞い込んでくるとは思えないが、小説なんて事務所で暇そうに珈琲を飲むところから始まるものだ。その前座であると思えば、暇に猫を探すのだって悪くはない。そう思って始めたことであった。
しかし実際は猫探しの依頼さえ来なかった。そのまま世間を賑わせた探偵は引退を宣言し、世の中は何事もなかったかのように日常へと帰っていく。つまるところ宮山は、探偵ブームに取り残された唯一の自称・探偵であった。
暇も行き過ぎると心を病ませていく。暗鬱とした気分で珈琲を飲むも、その苦味すら今は不快に感じてしまう。そんな最中にインターホンが鳴れば、誰だって期待を胸に膨らませてしまうだろう。
宮山は平静を装いながら玄関を開けた。無論、どうせ新聞や宗教の勧誘であろうということも考えてはいる。ただ、暇に限界が来た瞬間に鳴るインターホンなど、小説の導入としては完璧だった。ああ、完璧だとも。
「どちら様でしょうか」
言いながら、宮山は目を見開いた。玄関先に立っている人物は自分のよく知る人間だ。にもかかわらず目を見開いたのには理由がある。そこに立っている彼は決して宮山が出会うはずのない人物であり、宮山の想像を遥かに超えるサプライズだったからだ。
「こんにちは。少しお話をと思いまして。嗚呼、私は木野宮と申します。良ければ入れていただけませんか」
初老の男性が丁寧に頭を下げる。これが、宮山 紅葉の物語の始まりであり、しかしほんの序章に過ぎない、ただの幕間である。




猫猫事件帖
とある回想の放課後




「お話、と申されますと」
珍しく緊張に似た感情を覚えていた。それは彼が自分の憧れであり、世間を賑わせた張本人の探偵であるからだ。
探偵ファンなら、今まさにシャーロックホームズと出くわしたかのような気分で間違いないだろう。彼は幾人もの怪盗を退ける、正に小説の中の人物のような人なのだから。
そんな木野宮がわざわざ家を訪ねて来た。広告に小さく載っているこの探偵事務所もどきの連絡先を見た以外はあり得ないが、しかしこんなブームに置き去りにされたとすぐにわかるような探偵事務所に用があるとはどういうことなのか。
早く用件を聞きたくてたまらなかった。もしかしたら難事件を依頼されるかもしれないし、孤島の別荘に招待されるかもしれないし、いや、そんなことをする理由はないはずだと思いながらも胸が高鳴るのを感じる。
宮山は木野宮の言葉を待った。
「今から私は、突拍子も無いことを言うでしょう。それに驚かれるのも無理はない。しかしながら、今この時代に探偵をやっている人間というのも、早々多くはなくてね」
木野宮は穏やかな口調でそう言った。そりゃあそうだろう。探偵ブームの火付け役となった張本人でもあり、探偵ブーム鎮火の原因となった張本人でもあるのだから。宮山はなるべく冷静に言葉を待った。
「私の事はご存知だろうか」
「ええ、勿論」
宮山が返すと、木野宮は有難うと笑顔を見せた。メディアを通して見た時と何ら変わらない、善良そうな笑顔であった。
「先の引退宣言での通り、私は探偵業から足を洗いました。しかしながら、まだ未解決な問題……いや、とは言っても事件の話ではないのですが。私自身の問題がありましてな。それをどうか貴方に継いで欲しく思うのです」
「その問題、と言いますと?」
事件ではないと提言されてしまった以上、落ち込まざるを得ない。しかし宮山はそれでも続きが気になって仕方なかった。
「私には娘が一人おりましてな。遅くに生まれた子で、まだ幼い子なのですが…」
本当に突拍子も無い話だった。お父さんに憧れた結果、探偵と結婚したいと騒ぎ出した娘の為に婿探しでもしているのだろうか。そうでもなければ、ここで唐突に娘の話が出てくる意味がわからない。宮山は既に面食らった顔をしていた。が、木野宮は続ける。
「彼女は酷く探偵に憧れております。自分はすごい探偵になると言って聞く耳も持ちません。次の春に高校生になるのを機に、私が使っていた事務所を使って探偵業をするとまで」
「成る程?」
宮山は首を傾げながらもそう言った。どうやら婿探しでは無いようでひとまず安心だ。
「本当に、一度言ったことは覆さない子でして。ええ、それで貴方に…未だ探偵を営もうと思っているその志に惹かれてやって参った次第なのです。どうかうちの娘を雇ってやってはくれませんか」
つまりどういう事だ。この男は、見ず知らずの人間に娘を雇えと言いに来たのか。
いや、わからなくもない。彼が言う通り彼の引退宣言によって探偵ブームは静まり返り、今や探偵ごっこをする子供すらいなくなったような沈静化ぶりだ。ブームに乗っかって開業した同業者たちは次々看板を下げ、みんなが同じ夢でも見ていたかのようになかったことになっていく。
しかしブームに取り残された男がここに、一人いた。探偵になりたいと幼少期の頃の夢をここぞとばかりに叶えてしまったが故に、引き下がれない男が。彼はそんな宮山に、娘が一人事務所を開設するのが不安だから、引き取ってくれ、と言っているのだ。
やはりわけがわからなかった。まさか憧れの探偵から依頼が来るなんて、それだけで儲けものだがこんなとんちんかんな内容だと誰が予想できただろう?
宮山はしばらく黙り込んだ。黙り込むしかなかった。木野宮はそれを見て察するかのように声をかける。
「勿論報酬はあります。お金ではありません。一つ目は、木野宮探偵事務所の看板―――と、言いましょうか。娘が働く以上嘘もありませんし、お好きにこの名前を使っていただいても構いません」
あれだけ世間を騒がせた名前だ。その名に縋る人も出て来て、少なくとも今よりは商売繁盛に繋がるだろう。宮山は頷いた。
「もうひとつは事務所そのものを―――と言うと大袈裟ですが、あの事務所は古い家の一室を事務所用に改築していまして。あの家を好きに使ってくれて構いません。引退してから荷物もあらかた整理してますし、残っているものは好きなように使ってください。家賃も不要です。娘も入り浸ることになるでしょうから」
これは随分な好条件だった。寧ろ怪しいと言ってしまってもいいのではないかと思うほどの好条件じゃないだろうか。
宮山は思わず黙り込む。これは娘とやらが相当厄介な性格の持ち主か、性格でなくても何かしらの問題があるとか、そういうことも十分にあり得るのではないだろうか。
「返事はすぐにとは言いません。勿論、娘に会ってから決めていただいても構いません」
心を読まれているようだった。
「いえ……ですが、見ず知らずの男に娘を預けるなんて、流石に不用心ではないかと思ってですね……」
「大丈夫ですよ。貴方のこともそれなりに"調べ"ましたから。これでも元探偵ですからね、色んなツテがまだ残っているのです」
お茶目に笑う彼に感嘆してしまうが、反面知らないうちに自分のことを調べられる不快さにもゾッとする。いや、探偵とはそういう職業なのだから仕方がない。言い聞かせて、もう一度返答を考えてみた。
家賃なしの事務所付きの一軒家に、木野宮探偵事務所の看板―――例え彼の娘がどれだけ甘やかされてきたじゃじゃ馬だとしても、この二つの条件を上回る面倒さなどあるだろうか。正直、先の見えていない宮山にとっては救いに他ならない。しかし今ここで軽く返事をしてもいいような話とも思えない。
考えながら相変わらず黙っている宮山に、木野宮は察するかのように話し始めた。
「娘が探偵になりたい、と言うのは私に責任があるのではないか―――と言うのが、私の考えなのです」
「……と、言いますと?」
「私が"夢を見せすぎた"――――実際に探偵業をやられている貴方ならわかるでしょう。メディアに取り上げられ、怪盗と対決する。そんなのは今までずっと、小説の中だけの出来事だったのです」
ああ、そりゃそうだ。誰もがそう思っていたからこそ、彼の存在はミステリーファンを奮い立たせて世を探偵ブームの波で攫っていった。そんなのはよく知っている。
「だがそれを実現してしまった。故に彼女が言う探偵になりたい、の探偵とは、実にファンタジックなものだ。今も尚彼女は、幼い頃に読んだホームズに憧れる気持ちを一片も捨てずにいる。そうなれると信じている」
「ですが、仰る通り貴方がそのホームズに実際なったでしょう。それは夢物語ではなく事実なのですから、娘さんの夢には何の問題もないんじゃ……」
木野宮は哀愁の漂う笑みを見せた。何かが引っかかったが、彼には彼なりの事情があるのだろう。
「怪盗は実在します。今も尚この世の何処かに、私が捕まえた者の仲間や、―――あるいは、組織的なものが」
心が震えた。彼がそう言うのなら、そうなのだろう。幼少期の期待や希望が、今目の前に形として現れたかのような気分だった。
「夢を見せたのは私だ。だからこそ娘の夢を踏みにじる事は更にできなくなったのです。しかし遊びで終わればいいが、いずれそうはいかなくなるでしょう。彼女は私の娘に他ならない。それが何より私を不安にさせるのです」
だからどうか、彼女のそばに、と。
木野宮はそこまで言って、しばし黙った。
成る程彼の娘であれば恨みつらみを持った人間が彼女を狙わないとも限らない。何とも面白そうな話だと思う。宮山は決心していた。この話を断るのは、探偵に憧れた身分としてあほらしいにも程がある。
「娘さんに……一度会わせてください」
こうして宮山 紅葉は、木野宮 きのみと出会う序章を己で書き出す事となる。
あるいは怪盗と対決する伏線であり、あるいは怪盗と手を組む伏線にもなる。そんな大それた話となる、少し前の序章をーーー。





つづく