新章 壱

暗がりに紛れて、少女は常に憂いていた。
憂うべきは先の見えない未来でも、どうしようもなく縋り付いてくる過去でもない。それはただ、退屈という二文字に満たされただけのこの現状だ。常に、常に黒堂 彰は嘆いていた。
欲しいものは手に入る。いつだって手の届くところにある。それを退屈だと定義付けている内に、彼女は自分が欲しているものすら見失い、路頭に迷っているような状況になった。
自分でもよく、自分のことを知っていた。いや、今となっては知っているつもりだったという方が正しいのかもしれない。
どうしてあの時、小さな探偵を見逃したのか。その答えが出ないのは、ただ自身の本音に気付きたくないだけなのか、それとも本当に気紛れだったのか。
「貴女を裏切り者、と。そう呼んでもいささか間違ってはいないという認識ですよ、私はね」
影は言う。死刑宣告のようなものだった。しかし何処か引っかかる言い方に黒堂 彰は溜息を吐く。回りくどい話し方をするのは、出会った時からひとつも変わらない。
「だったらそう呼べばいい」
冷たい声色だったが、対して影は笑っている。何が可笑しいのかと怒りに眉をひそめれば、影が立ち上がりこちらを向いた。
「私も人の子ですから。ここまで共に歩んできた人間をそうやすやすと切り離せるほど、冷たくはないつもりです」
「だったらどうするの? 私がやったように見逃す? あり得ない、貴方がそんな甘い決断をするなんて。それこそ呆れるし軽蔑する」
一体何を考えているのか。
近くで見続けても、結局はわからない。知らぬ間に踊らされ、知らぬ間に躓かされている。この常盤 社という人間の前では、誰しもがそうなってしまう。
「さあ、ひとつテストでもしましょうか。貴女は怪盗に相応しいのか?それとも、そんな私の見立ては間違っていたのか」
「……」
夜が深まれば深まるほど、常盤 社という人間は見えなくなっていく。何を考え、何をしたいのか。彼は一体、何を見ているのか。
「難しいことはひとつもありませんよ。私が指定したものを盗んでください。しかし……それだけでは簡単すぎますね。嗚呼、そうだ、こんなのはどうでしょう」
少女は今、何処に立ち、何処に向かっているのか。
「"予告状付き"で……宛先は、わかりますね?」
どうすれば、この暗がりから抜け出せるのか。



猫猫事件帖 新章




「はあ? 予告状?」
「そう、予告状」
「すっごいデジャヴを感じるんだけど……まあ、いいわ。またあのチビがなんかしようってんなら、今度こそ全力で止めてやるんだから」
水守 綾は意気込みを示すかのようにアイスティーを一気に飲み干した。平日の昼下がりの喫茶店にはあまり人気がなく、相変わらず本当に読んでいるのかわからない新聞と睨めっこしている老人と、水守と目の前の男しかいない。男の名は壱川 遵。刑事の端くれであり、自称怪盗でもある。
例の事件から連絡が減り、こうしてランチに勤しむことも少なくなったある日のことだ。壱川からの呼び出しは唐突なもので、しかし急用だと言うことも珍しいものだから思わず飛んで来てしまった。
水守は壱川の様子を見ながら、しかし平然を装って話している。これ以上悩み、じっとしているのは水守の性に合わない。いつも通りを装っていれば、そのうちそれが本当になるだろう。水守はそう考えていたのが、対する壱川は何も繕った様子はなく、正に平然とした態度で水守の前に座っていた。
あの事件を経て、少しはわかり合えたつもりだ。ほんの少しかもしれないが、距離が近くなった気もする。しかしお互いにその距離に慣れず、様子見を決め込んでいる……といった現状である。
水守は壱川の言葉を待ちながらそんな現状を整理してみて、思わず唇を少し尖らせた。壱川からの連絡が減ったのもそういうことなのだと思う。思うのだが、あまりに平然としているものだから、距離が近くなったなんていうのは思い込みなのではないかとも思う。
嗚呼、煩わしい。どうしてこの男のことで悩まなければいけないのか。
水守は大袈裟に頭を横に振って、現実へと帰ってきた。
「それが、東雲君からじゃないんだよ。ちなみに宛先は俺宛が一枚、君宛が一枚。……つまり一緒に来いってことなんだろうけど。さあ、誰からだと思う?」
「まさか……」
言われて、壱川の手元にある封筒を引ったくる。小綺麗な装飾が施された便箋の中には、日付と場所、それから可愛らしい女の子のイラストが描かれている。似顔絵だろうか。いや、推測する必要すらない。その似顔絵に似ている人物を知っているからだ。
「黒堂 彰……」
「俺も彼女からだと思っている。……というか、他にないだろうな」
壱川は相変わらず冷静に口を動かしている。しかし水守は思わず眉をひそめた。この少女にはいい思い出がない。
「……また、何か企んでるのかも。例の男が来るかもしれないし……」
言うと、壱川がこちらをチラリと見た。不安に近い感情が顔に出ていたのかもしれない。
「行きたくない?」
「そんなわけないでしょ。決着を付けられるなら、それに越したことはないし。ただ……アンタは危ないかもしれないでしょ。前だって……」
そう、前だって。一番に狙われていたと言っても過言ではないではないか。水守はそう言いたげに口を開きかけたが、閉じた。
自分が行く以上、いや、自分が行っても行かなくても彼は行ってしまうだろう。そんな確信があったが故に、無駄な忠告だと判断したのだ。
「……大丈夫だよ。君がいてくれるなら。いざとなったら助けてくれるんだろ?探偵さん」
煽るような口調だ。水守は思わずムスッとしながら、しかし彼の宣戦布告にも似た共闘の申し出に安心を覚える。
「当たり前じゃない。どっかの頼りない刑事が心配だからね」
彼女の言葉に壱川は笑ってみせた。今度こそ一緒に行こう。そう言うかのように。
「ていうか……無粋なこと聞くようなんだけど、この子の名前って本名なのかな。単純に考えたら警察でどうにかなるんじゃないの?」
「まあ、君は首を傾げるかもしれないが」
壱川が珈琲カップを置いて予告状を一瞥する。
「それも暗黙の了解ってやつだな。例え正体がわかっていても、プライベートには立ち入らない。この子の名前が本名だとして、それを調べて住所までわかったとしても、俺は行かないし検挙もしないよ。ある意味でこうやって名前をわざわざ語るのは、"ルールを破れば容赦無く叩くぞ"っていう、自信にも見えるが……」
「ふーん……」
水守は納得するわけでもなく、しかし否定もしなかった。彼の言う怪盗の秩序や暗黙の了解などを理解できるわけではないが、寄り添う努力はしてきたつもりだ。
「ところで、俺の見立てじゃこの予告状は俺たち以外にも届いていると思うんだが」
「奇遇ね、私もそう思っていたところ」
二人は笑う。立ち向かう勇気など、とうの昔に備わっているからだ。


***


「無理に行かなくてもいい」
そう言ったのは、その背丈とは裏腹にあまりにも小さく見える背中だった。
少女、木野宮 きのみは彼の背中を見て、何を思っただろうか。考えるだけで恐ろしい。軽蔑かもしれないし、呆れ果てているかもしれない。
そのどっちでも良かった。彼女にそういった感情を向けられることがどうでもいいわけではない。しかし、そのプライドを殴り捨ててでも言わざるを得なかったのだ。
探偵、宮山 紅葉は。
「また危ない目に遭うかもしれない。きのちゃん、わかっているとは思うけど、この前のことは命に関わることだったんだよ」
もしも、屋敷の瓦礫の下敷きになっていたら。もしも、あの刑事が寝返っていたら。もしも、あの怪盗たちがもっと残酷だったなら。
宮山にはわかる。彼らの言うエンターテイメントというものが。宮山もそれを追って探偵になったようなものだった。しかし、少女の命を捧げてまでそれに熱を燃やすことはできない。何故なら宮山は誰よりも常識を備えた善良な人間だからである。
だから宮山は言った。手に持った予告状を握り締めながら、軽蔑されることに恐怖を覚えながら、それでも言ったのだ。
しかし反面、彼女の決断も理解していた。それを邪魔してしまうかもしれないことも、わかっていた。
彼女が背負ってきたものを考えれば、邪魔をするのは無粋でしかない。わかっているつもりだ。それでもつまらない日常を笑っている方が、馬鹿のふりをして毎日を送る方がいいのではないかと思ってしまう自分がいた。
自分は、何になりたかったのか。
悔しさに震えながらも、宮山は言葉を待った。木野宮は、ただ宮山の背中を見つめている。
「探偵になるのは大人になってからでも遅くない」
情けない。自分で思う。故に振り向けない。あどけない少女の顔を、今は見ることができない。
しかし木野宮は、いつも通りだった。数秒ぽかんとした後に、宮山の服を引っ張って満面の笑みを見せる。
「なんで!? よこくじょー貰ったんだから行こうよ!よこくじょー!初めてもらった!!記念にかざろう!!!」
「…………きのちゃん……」
思わず溜息。そう、木野宮はこういう人間なのだと思っていたからこそ、心の何処かで杞憂であろうとも考えていたのだ。
自分の役目は、木野宮 きのみという少女を、立派な探偵にすることだ。
宮山は思い直す。それが今はすべてなのだと言い聞かせる。彼女はきっと、踏み出さなければならないのだろう。いや、そんな準備はとっくのとうに出来ているはずだ。
あとは宮山が、それに寄り添って一緒に踏み出せばいい。
「探偵VS怪盗……さいこーでしょ!?」
木野宮が笑った。宮山も笑った。不安は拭えない。しかしきっと、ここで二人で素知らぬふりをしてこの日を過ごしていたって後悔したはずだ。
だから宮山は彼女に予告状を見せた。彼女に決断して貰うために。あるいは、彼女に背中を押される為であったかもしれない。
「嗚呼……最高だよ」
行かなければならない。そんなことはわかっていたはずだ。立ち上がるべきは今なのだと、宮山は拳に力を入れる。
「行こうか、木野宮。最高の探偵になりに行こう」
例えその結末が、どれ程苦しいものだったとしても。
「助手の俺が、先生を守りますよ」
「おお!行くぞみやまくん!!ついてきたまえ!!」
「いや、まだこれ明後日の話だからね……」



***



「で、お呼出しがかかったわけか。成る程な」
東雲 宵一は静かに頷く。なるほどなるほど、と呟きながら、ストローを咥えてオレンジジュースを啜った。
東雲は冷静に物事を判断することに長けた人間だ。しかし時折熱が入ると止まらないことがある。例の事件の後、部屋に篭って発明品の数々を改良し続け、三日寝ずに明乃に怒られたのは言うまでもない。
その後は今後のことを考え、黙ることが増えた。その分蓄積した思考は、今この状況に頷く事も容易にしている。
「成る程……じゃねーんだよ!じゃねーんだよな!?」
していなかった。
「もう、宵一さん。急に立ったらみんながびっくりしちゃうよう」
「いやなんでだよ!なんで平然と探偵に呼び出されて応じちゃってるんだよ!!なんでお前ら連絡先交換してんの!? 馬鹿なの!? 危機感は捨ててきちゃったの!?」
「友達だもんね~」
「ね~」
「ね~!じゃねえよ!馬鹿野郎!!」
怒鳴る東雲を壱川がまあまあ、と宥める。一通り怒った後で、東雲は溜息を吐いて座席に座りなおした。
「……まあいい。それで、お前らのところにも予告状が来たんだろ?だからってなんで呼び出されなきゃいけねえんだよ」
腕組みをして踏ん反り返る東雲が、そんな言葉を吐き出す。明乃はそんな東雲の口元に、自分が頼んだシフォンケーキのひときれをフォークに突き刺して持って行った。東雲が仕方なく口を開くと、シフォンケーキが押し込まれる。
「君らのところにも来てるだろうと思って、宮山さんに連絡が取れるか聞いてみたんだよ。まあ、そう怒るなよ。ここじゃ俺らはただの知り合いってことで、な」
壱川の言葉に東雲が顔を顰める。
「……木野宮と僕も、当日は行くことにしました。ご丁寧に招待状まで貰ってますから、行かないのも失礼でしょうし」
「はい、みやまくんも!あーん!」
「どうせなら協力しませんか? 目的はおなひへひょほはは」
「食べながら喋るんじゃねえ」
壱川が水守を横目に見る。ふとチーズケーキを口に運ぶ寸前の水守と目が合うが、わざとらしくその一口は水守の口の中へと消えた。
「目的が同じだあ? 俺と明乃は怪盗だぜ。やることはひとつ、こんな予告状を貰ったんだ、あいつらより早く目当てのものを盗んでやるって燃えてんだよ!」
熱を隠しきれないかのように東雲が声を張り上げる。明乃はそんな東雲の口元に、自分が頼んだシフォンケーキのひときれをフォークに突き刺して持って行った。東雲が仕方なく口を開くと、シフォンケーキが押し込まれる。
「それでも組むって言うのかよ?お前らは俺たちを止めるべき立場にあること、忘れてないだろうな」
続けて東雲が煽るように言葉を吐いた。明乃はそんな東雲の口元に、自分が頼んだシフォンケーキのひときれをフォークに突き刺して持って行った。東雲が仕方なく口を開くと、シフォンケーキが押し込まれる。
「明乃ォ!!」
「えへへ、宵一さん美味しそうに食べるから、つい……」
「……同じ目的って言うけど、それって何になるわけ?」
口を挟んだのは水守だった。チーズケーキを諦めた壱川は珈琲を口に含む。いや、元よりチーズケーキが食べたいわけではないのだが。
「打倒怪盗団、ってところかな。まあ打倒って言っても難しいよねえ。でも相手がその気なんだ、乗ってやってもいいと俺は思ってるよ」
「まあ、皆んなが同じ場所に集まって、似たような目的を持ってるのは確かですからね」
「だとー!かい!とー!だん!!」
木野宮が立ち上がる。宮山がそれを頭から押さえ付けて座らせる。
「ま、それもそうね。でもあのチビ、目当てのものを盗むとかなんとか言ってるけど?」
「後で返せばいいんじゃないか?事実上守ったことにはなるだろう」
「返さねえよ?」
「そうね、わざとやりましたって言えば向こうも納得するでしょ」
「いやだから、返さねえよ?」
期日は明日。指定は郊外にあるイベント用のホールだ。金持ちが"見せびらかし"の為に展示するダイヤのネックレスは、豪邸が建つ程の値段らしい。展示会の前夜、つまり明日に盗むと予告状には書かれていた。もうタイムリミットは随分と近い。
「……まあ、仕方ねえから乗ってやるよ。だが今言った通り、俺たちはそれを盗む為に潜入する。いいな?」
「ああ、勿論だ。後で返してくれるならそれでいいさ」
「だから返さねえって言ってんだろォ!」
「残りのメンバーは現物の前で待機になるな。どんな手を使うかは知らないが、静かに持ち去って行くだけとは思えない。必ず彼女は俺たちの前に現れる。……その時がチャンスだが、例の男が現れる可能性もある」
一同が静まり返った。あの得体の知れない人間を思い出すと、なんとも言えない気持ちがせり上がってくる。まるで、あの男に対して「勝つ」という意気込みさえ封じられているような、そんな気がするのだ。
「……僕の勝手な想像ですが」
宮山が口を開いた。彼の手には壱川と同じ珈琲カップがあるが、運ばれてきた時から一滴も減っていない。
「彼女……黒堂 彰は、あの男に自らの意志で加担しているようには見えませんでした。……いや、ただの憶測ですが、まるでついて行くしか選択肢がないみたいな……」
「それには俺も同感だ。彼女が望んでアレと一緒にいるようにはあまり思えなかった。彼女が本当にあの男に加担しているのなら、木野宮さんを逃がす理由がない」
視線が木野宮に集まる。しかし木野宮は呆けた顔をして口の周りのクリームを拭っていた。
「彼女を引き剥がして、味方になってもらえば、状況は良くなるかもしれません」
宮山は続ける。壱川も頷いた。しかし東雲は相変わらず踏ん反り返って、眉間にしわを寄せている。
「そう簡単な話とは思えないけどな。そんな事するくらいなら二人まとめて叩き潰した方が早いだろ」
「まあ、簡単ではないだろうが……試せるなら試した方がいいと思わないか?余計な犠牲を払うこともなくなる」
犠牲、という言葉に宮山が目を細めた。
「俺が言ってんのはな、味方にするしないの話じゃねえよ」
黒堂 彰を思い浮かべる。何を考えているかわからない飄々とした態度。端正な顔。しかし、あの男と比べると随分と人間臭さがあるような。
「まあ、好きにしろ。俺には関係ない話だからな」
一同は静寂に戻った。しかし誰もが、内心で犠牲という言葉に敏感になっている。
例え敵であるとしても、和解できるのならそれがいいのではないか。実際、明乃と木野宮は怪盗と探偵という間柄にしてお互いを友達と言っている。
あり得ない話ではない。いや、あり得る話にする。木野宮が敵対や闘争を求めるわけがないのだから。
宮山はそう思って、静かに目を伏せた。


つづく