新章 弐

緊張している。物事を前にしてそう思うのは久しぶりだった。いや、初めてかもしれない。今まで随分と適当に過ごしてきたものだから、宮山 紅葉は緊張という言葉とそれなりに遠い生活を送っていた。
だから緊張している、という事実を飲み込もうとするほど、余計に胸が高鳴る。それは、初めて怪盗を前にした時とは別の高鳴りだった。
あの時のような高揚感は少なく、不安だけが募っている。それに反して呑気にお菓子を貪る木野宮 きのみは、帽子の先にあるリボンを不可思議にもぴょこぴょこと動かしながら宮山を見ていた。
予告状に記載されていた時間の当日。ネックレスの持ち主である資産家に予告状の件を伝え、入れるようにしてもらったのは昨日のことだ。彼が運良く警察嫌いであったことにより、木野宮一行はなんなくホールでの警備に参加することができた。
見渡す限りの監視カメラ。それにおびただしい数の警備員。実際にこういう現場に来るのは初めての宮山でも、金の力を感じざるを得ない。
一体こんな状況で、どうやって件の物を盗むというのか。宮山は脳を回転させ続けているが、緊張がそれを阻んで上手く思考を纏めきれない。
別のルートから侵入すると言った東雲と明乃は、打ち合わせ通りに行けば黒堂 彰が来るであろう時間と重なるようにホールに辿り着くはずだ。その途中で彼女と会ったら連絡が来る手筈になっている。
チラリと木野宮を見る。相変わらずの何も考えていなさそうな顔だ。まるで、あの日の事が夢だったかのように思う。
木野宮との出会いは、彼女の父親を通してのものだった。彼と木野宮を見守ることを約束し、宮山は今彼女と毎日を過ごしている。
そこにあるのは、娘を心配する父親と、純粋に父親に憧れた少女だけであると、全く疑ってこなかった。
いや、どうして疑えよう。彼女の父は世に探偵ブームを巻き起こした程の名探偵で、彼を知らない人間などひとりもいない程だ。そんな彼が、実は怪盗と手を組んで八百長をしていた、なんて事実をすぐに受け入れられるわけがない。
果てに木野宮はそれを知っていた上で、探偵になりたいと言っていたのだ。彼女の中に渦巻いている、父親に対する失望や疑念は尽きないだろう。その思いに、どんな感情が乗せられているのかを宮山は知らない。しかし軽くないことはわかる。だけどそんなの、一言も言ってくれなかったじゃないか。
今も夢を見ているようだと再度思う。何が真実で、何が嘘なのか。木野宮に問いただすことはできるかもしれないが、それでは信用を失うだけだとも思う。
いっそ無神経に聞いてしまえたらいいのに。
そう思った直後のことだった。隣に立っていた壱川が何かを察したのか、駆け出した瞬間である。
視界が真っ白になる。煙幕であると気付くのに時間はかからなかったが、しかし理解するよりも早く風が巻き起こる。同時に煙がピンク色に染まっていく。何処かで爆発のような音が聞こえた気がしたが、気にしている余裕はなかった。
その風は不思議な形状をしていた。ネックレスを展示しているケースと、それを中心に二重の円を描くかのように巻き起こる。
意味がわからないまま木野宮を抱き寄せ、かばうような仕草をする。
瞬間、後ろで人が倒れる音がした。次いで前から……いや、様々な方向からするではないか。見渡せば宮山の周りだけ随分と視界がクリアだが、やはりピンク色に染まった煙にホールが満たされていた。
すぐに真後ろで倒れた警備員に声をかけ、安否を確かめる。ただ眠っているだけのようだ。
「催眠ガス……」
呟いてからようやく理解する。この風は宮山と木野宮、それに壱川と水守だけを"巻き込まないように"煙を吹き飛ばしたのだと。
背筋を何かが這い上がるのを感じた。一体どうやって、そんな神業じみた事を成し遂げたのか。頭がかつてないほど高速で回転を始める。今度の高揚は、初めて怪盗を目にした時のそれと変わらない。無理難題に挑む探偵の目がそこにあった。
「ちょっと、大丈夫!?」
水守の声に頭が現実に戻ってくる。木野宮を見れば、ピンク!綺麗!と目を輝かせて元気に煙を掴もうとしていた。
次第に煙が晴れる。視界が良くなればなる程、重なるように倒れる警備員の身体が転がっているのが見えた。
そして、その少女の影も。
「こんばんは。みんな来てくれたみたいで良かった」
張り付けたかのような微笑み。端正な顔立ちが美しさを主張するが、目の奥が笑っていない。黒堂 彰。彼女はケースの上で脚を組み、静かに座っていた。
「って思ったけど、あれ?怪盗さんが足りないね。まあ、いっか。貴女がいてくれてるんだし」
視線の先には、木野宮 きのみ。宮山は思わず木野宮を抱き寄せる手に力を込めた。
「俺たちを呼び出して、何の用だ?」
壱川が冷静に口を開く。東雲たちがどんなルートで来るのかは誰も知らないが、まだ到着していないから時間を稼がなければならない。宮山もすぐに理解した。
「用? 単純だよ、勝負しようと思って。私が捕まるのが速いか、それとも私がこのネックレスを着ける方が速いか」
ね、単純でしょ。黒堂 彰は笑ってケースを指先で叩いた。
「でも残念。もうすぐにでも取れちゃうよ、こんなの。あーあ、つまんないな。本当につまんない。勝ちが確定してるゲームってやる気になる? ならないよね。こんなの一瞬で……」
「君は!」
少女が腕を上げようとする。それを見逃さなかった壱川が、何かを仕掛ける気だと気付き声を上げた。
「君は、自分の意志であの男についているようには見えなかった。何か事情があるんじゃないのか?」
水守が隙を伺いながら、しかし踏み出せずにいる。宮山も同じく、彼女の言葉を待つしかない。状況は緊迫していた。予想外に速い登場に、有無を言わさない場の支配感。全ては彼女の気分次第でどうにでもなってしまうと嫌でもわかる。
「……事情?」
少女が張り付いた笑みのまま、首を傾げた。
「……どうして木野宮を見逃したんだ。君は、助けて欲しかったんじゃないのか」
宮山が問う。少女は何も言わない。
「俺たちにはその意志がある。君が仲間になってくれるなら、そんなに心強いことはない。彼に何をされたのか、教えて欲しい。仲間にはならなくても、助けることはできるかもしれないから」
真剣な眼差しを突き付ける。宮山の本心であった。救えるものは救いたい。もしも彼女が願うなら、手を差し伸べたい。そうして平和な日常に戻れるのなら、木野宮だってそれに越したことはないと思うはずだ。
しかし。少女はそれを払いのけるかのように笑うのを辞めた。彼女は小さく何かを呟いたが、それが何かはわからなかった。
「違うよ、全然違う。聞きたい? どうして私がここにいるのか」
それでも宮山は頷いた。知るべきだと思ったからだ。そして彼女は語り出す。静かに、昨日見た夢を思い出すかのような表情で。
「私は―――」



猫猫事件帖 新章




自分の顔が、世間の一般から見てかなり良くできているのだと知ったのは随分幼い時であったように思う。しかしそれは同級生からの告白の回数でも、街で声を掛けられる回数から知るわけでもなかった。
よくある話だと思う。黒堂 彰。当時中学二年生。彼女は常に校内で注目の的だった。
男性からは人気の一方で、女性陣からはその裏返しと言わんばかりの反発を受けていた。しかしそれでもそれが気にならないのは、単に彼女たちの言う数々の悪態が僻みだと知っていたからである。
随分とつまらなかった。親から口座に送られてくる金銭がどれだけ少なかろうと、楽に生きてこれた。欲しい物は他人を通して得ることができる。反面、持っていないものと言えば充実した学校生活だとか、気の合う同性の友達とかそういうものになるのだが、それを持っていないことに対しては何の感情も得なかった。
無表情を貫けば、あらぬ噂で校内が満たされることもあった。そのどれもがただの噂でしかなかったが、少女はそれを否定もせず、ただただ一日の時間を消化するばかりの日々を送っていたように思う。
つまらなかった。目標もなく、心の底から欲しいと思うものもなかった。ただただつまらないと思う一方で、その事実に苛立ちさえ覚えていた。
「なあ、一緒に帰らないか」
声を掛けてきたのは、ひとつ歳上の先輩だった。無視してペンケースを鞄にしまう。苛立ちは増幅するばかりで、ひとつも減りはしない。
「良かったら帰りに、コンビニでも寄ろうぜ」
照れ臭そうにそう話す男に、少女は嫌気がさしていた。人を好きになるという気持ちすら見失った少女は、その好意に向き合うということを知らない。
「……ない」
「え? なんて?」
小さく呟いた言葉を反芻する。少女は鞄の中を探りながら、至って冷静に現状を把握していた。
「財布が、ない」
「奢るってそのくらい!な、行こうぜ!」
鞄の中に入っているはずの財布がない。誰かが盗んだのだろうと、すぐに察しが付いた。その人物も容易に想像が付く。クラスの中でも目立っている方の女が、いつも自分を目の敵にしているからだ。
財布を盗まれたことに対する怒りは、皆無に等しかった。なんてつまらないことをするんだろう。そればかり考えては、やはり苛立ちが募っていく。少女は取り出した携帯電話から、連絡先の一覧を開いた。
一年生の頃、まだ彼女が仲良くしようとすり寄ってきていた頃に連絡先を交換したことがある。ひとつも表情を変えずに、黒堂 彰は指先を動かした。
内容は簡潔だ。話があるので近くの公園まで来てください。これだけだった。そのまま先輩を振り切って公園まで駆け抜ける。日が沈みかけている時刻だった。
公園の遊具に座り、暗くなっていく空を眺める。何もかもがつまらなかった。何でも持っている反面で、何も持っていない。何者にもなれず、何もできない。自分がいかに溢れかえる凡人の内のひとりに過ぎないかを理解しているが故に、苛立ちを感じずにはいられない。
だけど知っている。世界とはそういうものなのだと。この世のどこを探しても、自分が思っているようなものには出会えないだろう、と。
三時間程が過ぎ、月が頂上に達する頃。公園にひとりの影が見えた。必ず来ると確信を得ていた少女は、ブランコから立ち上がり、影に向かって歩み寄る。
「ごめんね、待った?あんたより優先しなきゃいけないことがたくさんあってさあ」
やはり件の、クラスメイトであった。少女は彼女の姿を見ても、表情を変えない。ただ心の奥底で煮え立つような苛立ちだけが、彼女を支配している。
「ああ、そういえば。これ落ちてたよ、あんたの財布じゃない? 確認したけど、中身は全部抜き取られてたよ。可哀想。あんた、一人暮らしなんでしょ? これからどうやって生活すんの?」
嘲笑するかのような言葉になど、何も感じはしない。ただ、日常の退屈さが、自分の無力さが、苛立ちとなり、狂気となり、黒堂 彰を突き動かしている。
暗がりから少女が顔を出す。クラスメイトは尚も嘲る言葉を吐き続けていた。暗がりから少女の身体が出てくる。クラスメイトの顔が、徐々に青くなっていくのがわかる。
「あんた、何する気!!」
叫ぶ声など届かない。少女の手には、体育倉庫からくすねてきた金属バットが握られていた。苛立ちをぶつけられれば何でも良かった。とうに自分は限界なのだと、気付いていたのに見て見ぬ振りをしていた。
最初からこうすればよかったのだ。それで何が解決しなくとも、棒立ちの人形になどなってやる気はないのだから。
嗚呼。私はどこに行きたいのだろうか。
クラスメイトの悲鳴を聞き流しながら、腕を振り上げる。この先に待っているものが地獄だとしても、今よりはマシかもしれない。環境が変化するなら、何でも良かった。
黒堂 彰の目には、もう何も映っていなかった。
「暴力はいけませよ」
何も、映っていなかったのだ。この瞬間までは。
「ですが金銭を盗るのもいけませんね。それではただの泥棒だ」
この男が、現れるまでは。
「何……ッ」
腰が抜けたのか、クラスメイトがその場に崩れ落ちた。片手で止められた金属バットに力を込めるが、ビクともしない。少女は男を睨みつける。
随分と美しい男だった。長い白髪を束ね、白い燕尾服を纏っている。まるで漫画の主人公だと笑いたくなるが、それが様になっているから笑えない。
「放して……」
黒堂 彰が小さく呟く。男は微笑んで言われた通りに手を離した。支えを失った金属バットが地面に突き刺さる。クラスメイトに当たるすれすれのところを叩いたようで、彼女はそこで殴られたと思ったのか意識を失ってしまった。
「……誰、アンタ」
「さあ、誰でしょう。ただの通行人なのですが……信じてもらえませんかね?」
人間味がない。あまりに完成されているが故に。男に釘付けになっていると言っても過言ではなかった。彼の放つ何かが、少女を震わせている。
「本当にただ通りかかっただけですよ。偶然にも暴行事件の現場を見てしまいそうだったので、思わず止めてしまっただけですから、お気になさらず」
この男は何者なのか。一体今、何処から現れたのか。まるで気配を感じなかったし、この男が声を出すまで止められていることにも気が付かなかった。
不気味。その一言に尽きる。しかしだからこそ、少女の目に光が灯った。
「……暗い顔ですね。折角美しいのに。嗚呼、そうだ、貴女にこれを差し上げましょう」
言って、男は地面に膝をついた。何をされるのかと身構えれば、優しく手を取られ困惑する。ポケットから取り出したそれを、そっと少女の指にはめて、男は微笑んだ。
「……指輪」
中学生でもわかる。ただの指輪ではない。輪の真ん中に嵌められた大きく光るそれが、偽物の宝石ではないということも。
「とてもよくお似合いだ」
「……これ、ニュースで見た。予告状が届いて、警察が守るって」
そう、今朝のニュースで見たばかりの代物だ。巷で怪盗と呼ばれる人間が、この指輪を狙っていると。怪盗なんて、泥棒を言い換えただけだと無表情でテレビを見つめていた自分を思い返す。
彼を見ればわかる。そんなのは、ただの偏見でしかなかったのだと。
「貴方は、怪盗なの?」
「だとしたら、どうしますか」
依然、微笑んだまま彼は問う。きっと警察を呼んでも、捕まる気など一切ないのだろう。だからこんなにも悠々と、少女の前に姿を現し、顔を見せ、こうして佇んでいる。
気付けば苛立ちなど最初からなかったかのように心は晴れていた。非日常が目の前に形となって現れたことに、心が打ち震えて喜んだ。きっとこれこそが求めていたものなのだと信じて止まらなくなった少女は、泣きそうになりながら声を出す。
「私を、連れて行って」
男はしばし驚いた顔をして、それから彼女の手を離し、背を向けた。それがどういう意味なのか察しながら、しかし少女は彼の姿を目に焼き付ける。
「貴方の名前を教えて」
指輪などいらない。金も、学校も、友達もいらない。ただひとつ、欲しいものが今見えた。
男は振り返る。相変わらず、あまりに不自然なほど柔和な笑みを浮かべたまま。
「常盤、社と申します」





つづく!