新章 参

「なーんで人間ってのは学習しねえのかなあ。いつの時代もこういうでけえ現場は通気口が怪しいって相場が決まってるもんだろお?」
「えへへ、私こういうの好きだなあ。なんかスパイごっこみたいで楽しいもん!」
「そうかあ、そりゃあ良かったよ」
適当に返事をしながら、東雲 宵一は匍匐前進で通気口の中を進んでいた。後続が明乃なのは、東雲の更に前を行くドコデモキレイニナール四号機の動作を確認しているからだ。綺麗好きの東雲にとって、通気口の中を通って服が汚れるのは地獄に等しい。
「あいつらは上手くやってんのかね」
独り言のように呟きながら、東雲が腕に着いた装置のスイッチを押す。小さいモニターにショーケースの周りが映されるが、ネックレスを取り囲む警備員が険しい顔をしているところしか映らなかった。
「この程度の警備でやり過ごそうなんて甘っちょろいにも程があるぜ」
溜息をつきながらモニターを切る。切った直後、明乃が何か叫んだのが耳に入った気がした。瞬間、目の前が煙に包まれる。ドコデモキレイニナール四号機が必死に動き回るが、押し寄せる煙を排除し切れずショートしかけた時だった。
「宵一さん!」
爆音。と同時に身体が浮遊感に包まれる。落ちているのだと察するより早く明乃が東雲の身体を抱えるように抱きしめ、そのまま地面に着地した。
「デジャヴだ……」
言いながら見上げれば、ドヤ顔をした明乃が此方を見ている。降ろしていいぞと告げても明乃は動かない。そして、明乃が何かを察したかのように顔を上げ、その表情が険しくなった。
「……邪魔をしないでいただけませんか?」
その声には覚えがある。東雲もまた、険しい表情でそちらを見た。
爆発の煙から、その男は飄々と現れた。異様なオーラを纏って、異様なほど柔和な笑みを浮かべて。
「まさか、貴方がたにまで予告状を送るとは……本当にあの子は読めませんね」
その男、常盤 社。
東雲を地面に下ろしながら、明乃は戦闘態勢に入る。
「ハッ、わざわざ来てやったってのになんだその言い方は!失礼だろうが!邪魔して欲しいから予告状なんてもん渡してきたんだろ」
常盤は肩を竦めて溜息を吐いた。
「困るのですよ。あの子の選択の邪魔をしてもらっては。……黙って引き下がってくれると言うのなら、勿論私も黙って此処を退くのですが」
いいや、そんな気はない。目がそう訴えていた。東雲ではなく、明乃がだ。
わかったと言わんばかりに東雲は頷いた。リベンジしたいんだろう。言葉にせずともわかる。明乃の脳は今、この男に勝つことでいっぱいだ。
「……悪いが俺も約束は破らない主義なんでな。アイツらに手伝ってやるって言った以上、それを通すのが筋なんだが……」
明乃が小ぶりのナイフを取り出す。東雲は首にかけていたゴーグルを装着した。
「今はそんなことより!約束通りテメーをはっ倒す!」




猫猫事件帖 新章




「貴女は本当に覚えが早い」
褒めているのだろうか。表情が揺るがないせいで、その真意すら見失いそうになる。
少女、黒堂 彰はそれでも少し嬉しそうだった。自分が初めて興味を惹かれた目標とも言うべき人間にそう言われているからだ。
常盤 社は思いのほか早く少女の前に現れた。彼は少女に新しい住む場所を与え、怪盗としてやるべき事を、知るべき事を教えた。
覚えが早いと言われた通り、少女は教えられた事を次々と飲み込み、ありとあらゆる手段を身に付けた。
しかしそれは慣れという退屈を招く原因にもなり得る。
やはり欲しいものは手に入るのだ、という再確認にしかならず、慣れればこれも日常の一部へと変化していく。少女は少なからず落胆していた。出来るが故に、窮地に陥ることもなく、スリルを味わうこともない。
負けることも、捕まることもあり得ないと驕ってすらいる。いや、驕りでもないだろう。実際に少女は、そこまでの実力を身につけつつあった。
「社さんは、つまらなくないの?」
「何がです」
同時に、この男への親近感もあった。彼は何でも持っている。何でもこなせる。それも、自分以上に。
彼もまた、つまらない日常に飽き飽きとしていたが故にこういったことをしているのではないかという推測に至るまではすぐだった。何を考えているかわからずとも、推測はできる。はずれているとも思えない。彼の今まで成し遂げた事の大きさは、聞かずともわかる。それでもまだ足りないのだろう。自分であれば、足りないと感じるだろうから。
そんな事を思っての質問だった。つまらなくなっても尚、彼女が常盤のそばにいる理由でもあった。
つまらない事をしていると気付かない人間ほど、つまらない事をする。あのクラスメイト達のように。彼はそうではない、と信じたかったのだ。
「つまらなくなどないですよ。世界は面白いもので溢れているじゃないですか」
「……でも、社さんは何でも持ってるし、何でもできるでしょ。それってつまらなくない? 全部、自分の思い通りにいくなんて」
彼は、笑っていた。少女は不思議そうな顔をする。
「私は何もできませんよ。秀でているものなど、何もありません。特別な人間など、この世の何処にもいないものだ」
失望。いや、絶望か。少女はその言葉に酷く怒りを覚え、目の前が暗くなっていくのを感じた。
常盤 社という人間は、自分よりも"何でもできる"身でありながら、自分を特別だとは言わない。そんなことが、許されていいはずがない。
怒り。それしかなかった。目の前の暗闇が消えると同時に、少女の目からも灯っていた光が消える。
傲慢だ。そう思う。この人間が特別でないのなら、それを目指していた自分は一体何なのか。何者かになりたい。何者にもなれない。他者より優れていても、誰にもなれはしない。突き付けられたようで、少女は無言で部屋を出た。
これは失望だ。少女は決め付ける。彼の底を見たような気持ちになる。こんなものはいらないと殴り捨てたくなる。
しかし元の生活に戻るのもごめんだった。最早、これを失くしてしまえば、今度こそ行き詰まるような気がして。
ただ少女が彼を、名前で呼ぶことはなくなった。


怪盗団。怪盗の秩序を守るという目的で作られた団体。作ったのは何を隠そう、常盤 社であった。
少女にはそれがどれ程重要なものかはわからない。しかし目的や思想が明確にあるというのは動きやすいもので、提示されたルールには従った。自ら勉強もした。過去にあった事件も洗いざらい調べて、自らの演出の為に様々な分野の勉強をした。
そんな彼女の目を引いたのが、木野宮という名前である。この名前自体は少女も知っていた。なんせ、世間をあれだけ賑わわせていた存在である。怪盗になる以上、探偵というものが宿敵になるのだとその時にようやく理解ができた。
そしてその木野宮に娘がいる、という情報が少女を突き動かした。調べれば、年齢は同じだ。それに彼女は名探偵の娘で、自身も探偵になりたがっているという。
目を付けない理由がなかった。気になって仕方がなかった。この探偵との対決は、自分の退屈を紛らわせてくれるかもしれない。
彼女と敵対する理由ならある。彼女の父親が八百長を行なっていたと、常盤が教えたからだ。その娘をマークするのは、怪盗団として当然のことだろう。常盤はあまり目立った動きをしないようにと注意したが、少女は聞かなかった。
そして某日―――とある教会で、ようやく少女と対面することになる。
彼女の真剣な眼差しを見て、少女は高揚した。彼女こそが、退屈を打ち破る鍵かもしれない。気付けば少女は、彼女を随分と観察するようになった。
彼女―――木野宮 きのみは少女の予想を反して普通の女の子だった。学校に行き、友人と仲良く話し、家に帰って助手とお茶をする。繰り返しの日々。少女は落胆した。
しかし、同時に彼女の"普通"を目にして、思い始めたこともある。
普通の何がいけなかったんだろうか。
それは自分への問いかけであった。どうして自分は普通になれなかったのか。どうして普通に幸せである事は悪だと思っていたのか。どうして、どうして。どうして、こんなにも退屈だと思い込んでいるのだろうか。
少女は混乱する。彼女が描く日常は、どれも色鮮やかで美しかった。そのひとつひとつを、少女は持っていない。彼女が持つものを、つまらないと言えない自分がいる。どうして、どうして。
思い詰めている内に、その日は来た。常盤が彼女たちを誘き寄せようと提案したのだ。少女が真正面から彼女たちと接触した以上、もう突き詰めてしまった方がいいだろうという常盤の考えであった。
そしてあの瞬間。黒堂 彰は、初めて常盤に反抗を見せ、木野宮たちを逃した。
退屈からの脱却を思い描いたのだったか、彼女に普通を歩み続けて欲しいと願ったのだったかは忘れた。
ただ、あの時―――黒堂 彰は、確かに自分の救済を、祈っていたように思う。



「それが、私の話。それだけが、私の話」
黒堂 彰はやはり静かに告げた。一同が静寂に包まれる。彼女が自分から常盤について行ったのだという予想を反する事実に、糸口は最早なくなっていた。
「……君はどうしたいんだ」
宮山が問う。少女は肩を竦めた。
「さあ、どうしたいんだろう? だけどそこの探偵さんとの対決を楽しみにしてるのは本当かな。なんでだろう、貴女っててんでダメダメなのに」
木野宮と少女の目が合う。
「なのになんで、貴女ならって思うんだろう」
宮山は推測する。彼女は自分で自分を理解できていない。何を求めているのか、どうしたいのか、それをまだわかっていないのだ。
つけ入る余地はあるはずだ。仲間にすることも叶う。だが、次の言葉は出てこない。何故なら最大の当事者は宮山ではない、木野宮だからだ。
「私はこの生き方以外知らない。普通が恋しい? そんなの隣の芝生が青いってやつなだけだよね。わかってる、普通になったって苦しむだけ。だって、私はそういう風にできてるんだもん」
無駄なんだよ。少女は言う。宮山は次の言葉を選び続けていた。しかしそれも意味がないとわかっている。だが何か言わないと、今度こそチャンスがなくなってしまう。
焦る宮山の腕の中で、木野宮がもぞもぞの動き出した。思わず手を離せば、木野宮のりぼんがピョコピョコと動く。彼女に賭けるしかない。その場にいる全員がわかっていた。だが当の本人がわかっているかと聞かれれば絶望的である。
木野宮は、歩いた。少女に向かって、真っ直ぐに。少女は尚も余裕の笑みを浮かべては頬杖をついている。
木野宮 きのみ。名探偵の娘にして、自身も探偵を目指す平凡な高校生である。だがしかし、彼女が人より秀でている部分も、宮山は知っている。
「友達になろう!」
それは、純粋な心と、単純な思考。故に彼女は、立場も状況も関係なく、真っ直ぐに言葉を投げることができる。
故に彼女は、目の前の少女を敵とも捉えず、怪盗とも捉えず、ただ同い年の女の子として映すことができる。
「は……」
少女の顔が崩れた。純粋に、驚いたような顔だった。
「友達に!なろう!」
両手を大きく広げて、木野宮は叫んだ。少女はすぐに顔を顰めて、彼女に噛み付く。
「馬鹿じゃないの?」
「一緒に遊ぼう」
「だからそういうのはいらないって言ってるの!」
「いっぱいおしゃべりしよう!」
正真正銘の馬鹿でありながら、だからこそ木野宮は人の心を剥き出しにすることができる。
宮山は思う。彼女はやはり、自分が知っている木野宮 きのみと何も違いはしないと。何を背負っていても、何を考えていても、ただこうして真っ直ぐに人とぶつかれるような少女なのであると。
「ふつうでも、ふつうじゃなくてもいいよ」
少女の顔が崩れていく。まるであどけない、ただの女の子であるかのような。
「彰ちゃん」
木野宮が、ひとりの少女に手を差し伸べた。



***



「クソ野郎!なんだってそんなにすばしっこいんだよ!」
大声を上げる東雲に対して、明乃は始終仮面を被っているかのように表情を変えなかった。身体に傷を負っても声を出さず、息を殺して隙を待つ。しかし淡々と攻撃を躱され、内心で焦りを覚えている。
恐怖に似た感覚だった。身体能力で言うなら、僅かでも明乃が優っているはずだ。しかし常盤はそれを別の部分すべてで補っているかのようであった。
勝つビジョンが見えない。それが明乃の心を焦らせて、苛立たせる。負けるわけには行かない。今度は負けないと、後ろに立つ東雲に誓ったから。
しかし刻一刻と時間が過ぎる度に、やはり自分が膝をついている想像がはっきりと形を成していく。
「明乃!こっちに来い!」
東雲が叫ぶ。命令に従うロボットのように、明乃の身体が半回転し、東雲を目指し始める。
しかし上手くは行かなかった。常盤が目の前に立ちはだかったことで、明乃の身体に急ブレーキがかかる。
「……勿体ないですね。貴方ほどの能力があれば、私なんて一溜まりもないというのに」
嫌味のような言葉に、明乃の顔が曇る。彼は自身の服に着いた誇りを手で払った。
「嫌味ではないですよ。ただ無意識に殺さないように手加減しているから私に届かない、というだけの話で。貴方がそういう風に"教え込んだ"のでは?」
視線が東雲に向く。明乃は何も言わずにナイフを握る手に力を込めた。
「……私も暴力はあまり好かないのです。仕方なくそういう手段を取っているだけで」
常盤の腕が上がる。何かを仕掛けようとしていることに気付いた明乃が地面を蹴り、常盤に飛びかかる。
体勢を崩した常盤が、明乃ごと瓦礫に突っ込んだ。大袈裟なまでに地面が揺れ、明乃が顔を上げ、すぐさまその顔から血の気が引いていく。
「……ッ宵一さん!!」
叫んだ時には遅い。目が合った瞬間に、東雲の上から天井の破片が落ちる。剥き出しになった骨組みの一部が、東雲に襲いかかった。
「宵一さん!宵一さん!!」
全身の動かし方を忘れたかのように、明乃が下手くそに瓦礫から這いずり出て駆け寄る。東雲の手を掴めば、脈打っていることに安心する余裕もなく、明乃は叫び続けた。先程までとは別人のように、無表情であった顔は崩れ、焦りに手が汗ばんだ。
血の匂いがする。感じ取った時には思考が停止していた。見るのが怖い。しかし東雲の安否を確認する為、明乃は視線を落とす。
間一髪で直撃は避けたものの、東雲の横腹から大量の血液が流れ出していた。
目を見開き、明乃が更に狼狽する。怒りなのか、悲しみなのか、何とも付かぬ感情が溢れかえるようだ。
「ああ……っ!宵一さん!宵一さん……!」
「大丈夫だから落ち着け!」
声を上げると痛みに身体が軋む。しかし東雲はそう言って、なんとか膝をつき立ち上がろうとするも、力が入らず崩れ落ちる。額から嫌な汗が流れるのを感じながら、東雲は明乃を見た。
涙が溜まった目に、東雲の姿が映っている。強気に笑って見せても、明乃の顔は晴れなかった。
「……大丈夫だって言ってるだろ。明乃、まだやれるな?」
「宵一さん!ねえ!帰ろうよ、お願いだから、逃げようよ!もう無理だよ!こんな怪我、死んじゃうよお!」
「馬鹿言え、こんなところで引き下がれるか!」
「もうエンターテイメントなんて馬鹿なこと言ってる場合じゃないの、わかるでしょ!?嫌って言うなら担いで帰る!!引きずってでも、絶対に……」
強くなるね、と。明乃が最初に言ったのはいつだったか。それはきっと怪盗としてではないのだろうと気付きながら、東雲はぶっきらぼうにおう、と返事をした。
泣く事を覚えてから、泣かないようにと我慢するようになるまで、どれだけの時間を要しただろうか。東雲にとっては、明乃の表情が変わることが何よりの安心となるというのに、明乃はそれを裏返すかのように泣かなくなった。
「明乃」
頭を撫でてやる。安心させてやらなければと思った。
「わかってねえな、こういう時だからこそエンターテイメントなんて馬鹿なこと言うんだよ。此処で大逆転したら超絶かっこいいだろうが」
東雲 宵一は思い出していた。初めて恐怖に負けたときのことを。あの時動かなかった身体に、今爪を突き立てた。あの日の悔しさを、あの日の無力さを、あの日感じた全てを今ここで振り払う。あの男への憧れも、自分に対する怒りもすべて。そして今度は、今度こそは、自分という存在を確立するかのように。
「弱気になるな。俺はお前がいなきゃ弱っちい怪盗だが、お前がいればなんでもできる」
明乃という存在を、際立たせる為の道具でも、なんでもいい。ただ、明乃が自分で道を選べる日が来たのなら、そんなに嬉しいことはないと思う。
「そう信じて今までやってきたんだ。お前もそうだろ」
明乃が静かに頷いた。
「俺のためじゃなくていい、自分のしたいことをしろ。お前がどうしたいのか、ちゃんと胸に手当てて考えてみろ!こんなところで引き下がって、それでほんとにいいのかよ!」
そして遂に、涙が溢れる。しかし明乃はそれを力強く拭って、顔を上げた。
「……ムカつくよぉ、負けたくないよ、勝ちたいよ!!逃げたくなんかない、こんなところで、止まりたくないよ!!」
気持ちを汲み取るかのように。もしくは、共鳴するかのように。
東雲 宵一は笑う。強がりでもなんでもない、心の底から、この状況を愉しんでいる笑みだ。
「この展開、最高だぜ!」




つづく!