オペラ座の歌姫失踪事件 伍

何、簡単な話ですよ。
影が笑ったのに対し、嫌な不信感を覚えたのを忘れられない。行き場のない少女は、生きることの目的を見失っていた。常に死んでいるかのようにすら思えた。己の身体に熱を感じず、動きを感じず。それは心にさえ及んで、自分が本当に生きているのか、そうでないのかの判別すらつかなくなっていた。
しかしその時、確かに動き始めたのだ。心臓が、血液が、脳が、心が。目の前の影に対する恐怖や、不安や、警戒や、困惑。
何よりも高揚と、感動で。
「私たちの仲間になってしまえばいい」
皮肉にもこの時、少女は生きることの意味を愉しむことに置いた。
皮肉にもこの時、少女は未だ見ぬ世界があるという、それだけを突き付けられて希望を見た。
皮肉にもこの時、少女は影の手を取った。
「我々の目的はただ一つ――――」
白い燕尾服の"影"は言う。その口から漏れる言葉は、まるで童話でも語っているかのような。
「"秩序"の為に、制裁を」





猫猫事件帖
オペラ座の歌姫失踪事件 五






「そんで、アイツら結局何の為にお前らを呼んだんだ。まあなんだっていいんだが、俺が呼ばれてないのが気に食わねえ」
「呼ばれてない分平和でいいじゃないか。こっちは何の身に覚えもないことで命まで危険に晒されてるんだぞ」
「……そうですね、俺もどうして木野宮と俺が此処にいるのか……」
「みやまくん!この辺に隠し扉がある気がする!!」
「きのみちゃん止まっちゃダメだよう!置いて行かれちゃうよう!」
「全く呑気なもんね、遠足じゃないってのに、なんか気が抜けちゃうわ」
一行は屋敷の中を進んでいた。入ってすぐにある広いホールから、できるだけ固まって一階、二階と慎重に捜索を行っている。
照明もなく薄暗い屋敷の中で、誰もが緊張に息を潜めていた―――はずだった。
まあ、変に疲れるよりいいか。
思いながら宮山は中々進もうとしない木野宮の服を引っ張る。列に戻った木野宮が明乃に手を繋ごうと言われ、嬉しそうに手を繋いだのを見て自分も列の中腹に戻った。
「ケッ、何の身に覚えもないことだあ?お前が一番身に覚えがあるんじゃないのかよ」
「まあ、そうかもな。この中じゃ俺が一番グレーゾーンなんだろう」
言ったのは、壱川だ。怪盗でありながら刑事。双方からして"裏切り者"である彼が件の怪盗団に目を付けられるのは仕方のないことなのかもしれない。言っても、宮山は怪盗である壱川を知らない。胡散臭い男ではあると思うが、実際に悪さをしているところなど想像も付かなかった。節々、彼は人が傷付くことに対して過剰に反応をする。敵であるはずの彰に刃を向けた明乃を止めた時のように。しかしそれは別に、怪盗だけに向いているものではない―――と、宮山は思った。
勿論、そう言わしめるのは彼の相棒である水守の存在が大きい。
彼女が危険に晒されていると知った時、壱川ははらわたが煮えくり返ったとでもいうような形相で彼女の元へ駆けて行った。
彼の真の目的を、宮山は知らない。いや、この場に知っている人間などいるのだろうか。少なくとも怪盗仲間である東雲と、相棒である水守はある程度知っているのだろう。しかし水守は壱川について「私もあまり知らない」と言っていた。
彼が怪盗側の人間で、更に言えば怪盗団側の人間だったらーーー…?
東雲も、怪盗側の人間であるのにどうしてこの場で仲間だと言い切れるだろう。この二人が、味方である保証など何にもないのではないか。
そんな宮山の思考は、木野宮の大声によって遮られた。気が付けば考え事をしている間に、薄暗く長い廊下を歩いていたらしい。振り返れば木野宮はまた列を外れ、壁に顔をぴっとりとくっ付けていた。
「こら、きのちゃん」
「みやまくん!今度こそ隠し扉がある気がする!!」
「わかったから、皆に迷惑かけちゃダメだろ、できるだけ離れないように」
「ほんとにほんとにほんとなんだもん!ここにある!探偵の勘が告げている!!」
「いい加減にしないと明日のおやつは―――…」
ガラッ、ぽんっ。
何とも間抜けな音に全員が一時停止した。列の最後尾より少し向こうにいた木野宮が張り付いていた壁が、突如消えたのである。
「わっ」
「きッ―――!」
支えを失った木野宮の身体は、壁の向こう側へと消えていく。正にその瞬間だった。
「わおーーー!!!」
「木野宮ッ!!?」
「きのみちゃーーん!!」
「こら明乃!俺から離れるな!」
「待て!取り敢えずみんな固まっーーー」
「大丈夫なの!?ちょっと!!」
全員が同時に動き出す。誰かが誰かにぶつかり、更にその前の人にぶつかる。正に人間ドミノ。壁の向こう側を覗こうとしていた宮山は、全員分の体重を背負って暗闇に放り出された。
「おおお……!?」
「ダーーー!!明乃ーーー!!!」
「宵一さーーん!!」
「うわ……!」
「ギャーーーー!!!!」
各々の悲鳴。各々の喚き。虚しく、宮山は落下の後で地面と身体をしっかりぶつけた。
「痛!!」
次いで、東雲を抱きかかえた明乃が綺麗に着地する。
「よいしょ!」
「……冷や汗かいたぜ、おい降ろしていいぞ」
「えー、宵一さん、もしかしてまた軽くなった?帰ったらカロリー高めのおやつ作るね!」
「いいから降ろせ馬鹿!お姫様抱っこ以外にもあっただろこんにゃろ!」
更に次いで、水守を抱き締めたまま華麗に着地ーーーできなかった壱川が地面に腰をぶつけた。
「いたたたた……綾ちゃん、怪我は?」
「…ない」
「そう」
ぺしゃんこになりかけている宮山が顔を上げる。けろっとした顔で立っている木野宮を見て、なんとなく虚しくなった。
「ほら!みやまくん!私の言った通りでしょ!!すごいでしょ!!」
「はいはい、すごいよ。疑って悪かった……」
よしよし。頭のリボンの抑えつける。なんだかこのリボンも今日は大人しいように思うが気のせいだろうか。
「さて、地下に降りて来たんだろうけど」
立ち上がった壱川がコートの埃を払いながらあたりを見渡した。真っ暗な空間は、ある程度広いということ以外何も伝えてこない。急に、悪寒がした。どのくらい落ちていたのか、此処は一体何処なのか。得体の知れない何かに巻き込まれることを予想して、宮山は木野宮の腕を引き寄せる。
そして誰よりも早く、足を踏み出そうとした瞬間、ふと声が己の耳に吸い込まれた。
「……誰かいるの?」
か弱い声。女性の声だ。怯えるような、悲しむような。今にも消え入りそうなそんな声に、一同が制止する。
罠かも知れない。
考えていることは一緒だった。警戒態勢に入った東雲は明乃に指示を出そうと隣を見る。が、とうの明乃は警戒すらしていない様子だ。この場の誰よりも敏感であるはずの明乃が、である。どうした。東雲が聞こうとした声は、更に別の声に掻き消された。
「あーーー!!!女優さんの声だよみやまくん!!!」
「何……?」
木野宮が、声のする方を指差してそう叫んだ。明乃が追って声を上げる。
「あ、やっぱりそうだよね?あの、大丈夫ですかーー!?」
「その声……あの時の探偵さん……?」
女の声が段々と明るくなっていく。一体、何に怯えていたというのか。宮山の警戒心は膨れ上がる。
「よかった!よかった……!助けに来てくれたのね……!お願いこっちに来て、鎖に繋がれてて動けないの……!!私を助けて!!」
必死に縋るような声。宮山はその空気に異常さすら覚えた。
これは餌だ。
あの女優は。だが何故あの女優が?
「早くしないと"彼"に―――!!!」
何故、あの女優ではなければいけないのか。
何故怪盗団は彼女を殺そうとした。何故怪盗団は人質として、態々彼女を選んだのか。
此処にこのメンバーを誘き寄せる為なら、木野宮本人を捕まえた方がよっぽど楽だろう。小柄だし、馬鹿だし、学校にも真面目に通っていないし、馬鹿だし、あと馬鹿だ。宮山はいち早く木野宮の失踪に気付きそれを追い掛けるし、残りのメンバーもそれを受ければ集まった筈だ。
怪盗団には、確固たる目的として女優を殺さなければいけない何かがあったとしたら、それは何だ。
怪盗団の目的は―――……
「助けじゃないよ。貴女にはこれから少し道具になってもらうだけ」
カッ、と。熱く感じる程の光が部屋の真ん中に放たれた。白い光に炙り出されたのは、間違いなくあの舞台に出ていた女優だ。
「ちょっとした判断を下す為の材料……どっちにしたって助かりはしないけど」
そしてその奥に、佇む少女がひとり。
「黒堂……彰」
「こんにちは、探偵さん、怪盗さん。それじゃあやっと、答えあわせを始めよう」
女優は声も出ないのか、彰の姿を見て震えるばかりだ。
明乃が臨戦態勢に入る。東雲もその隣で周りを警戒している。
「まずはそうだなあ、どうして狙われてるかわかる? はい、そこのキミ」
彰が悪戯に指をさしたのは、水守だった。水守は呆気にとられたような顔をするが、すぐに彰を睨み付ける。
「どうしたの? こんな簡単なこともわからないのかな。それじゃやっぱり探偵"もどき"だね」
「はあ!? さっきから言わせておけばガキンチョの癖に―――」
「綾ちゃん」
水守の肩に、大きな手が乗った。勿論、壱川の手だ。わからないわけじゃない。わからないわけがなかった。何故なら水守も、間違いなく当事者であるから。
しかし口に出すのを躊躇う。言わなければ話は前へ進まないのだろう。しかしそれでも水守は唇を噛んだ。とんとん、と大きな手が肩を叩く。子供をあやすような、そんな手付きだ。言っていいよ、と。そう言われている気がした。
「……アタシが、こいつに加担してるから。こいつは刑事で怪盗で……そんな奴に手を貸してるから、同罪だって言いたいんでしょ」
それは壱川を責める言葉にもなり得た。壱川の行為は、怪盗を裏切っていると言われても仕方のないことだ。なんせこの男は、怪盗でありながら刑事として働いている。いつ怪盗を差し出してもおかしくはない、と誰もが危険視するだろう。事実、壱川は己の正義に則って怪盗を裁いている。
そしてそれに手を貸しているのは、水守だ。怪盗にとってはこの上なく目障りだろう。これは水守が承諾したことだ。それでも、壱川を責める言葉には違いない。壱川が、自分で自分を責めているように。
「ぴんぽんぴんぽーん、正解。正直一般人の時点でグレーゾーンなんだけど、目障りには変わりないんだよねえ。じゃあ次いってみよう」
少女は愉しそうだった。人を自分のルールで悪だと決めつけ、正義を執行するのは気持ちがいいのだろうか。それとも―――
「じゃあ今度はキミ」
指は、壱川の方へ向いていた。
「さあ、答えて。キミは何をシタの?」
「はあ? そんなの今言ったのと同じじゃない、こいつは刑事で怪盗で―――」
「貴女には聞いてないよ。答えは彼の口から聞くべきでしょ?」
何を、と。
その場の誰もが……いや、ひとり以外全員が呆気に取られていた。
刑事で怪盗。その立場である事以外に、壱川に何があるというのか。皆が壱川を見ている。不安そうに。知りたそうに。渇望するかのように。
誰よりも水守が、壱川を不安そうな瞳に映している。
「それは」
何もないと言ってくれ。そう言いたげな視線に、壱川は怯んだ。
「それは……………………」
怯んだ隙を、突かれた。
「お父さんが嘘吐きだから」
言ったのは、壱川ではない。
不安そうな水守でも、見守っている東雲でも、おろおろとしている明乃でもない。面を食らっている、宮山でもない。
「お父さんが、嘘吐きだから」
満足そうに笑みを零す、彰でもない。
「…………正解、大正解」
言ったのは、小さな探偵だった。
ただひとり此処で、静かに話を聞いていた木野宮だった。
木野宮と彰の視線がぶつかる。壱川が驚いたように目を見開いて、彼女を見ている。
一体、どうなっている。
宮山は、何も口から出ない代わりに手を伸ばした。木野宮の肩に、その手を乗せようと。
しかしそれさえ出来ずにいる。何も知らない筈の少女が、逞しくも目前の怪盗と視線をぶつからせているからだ。
「木野宮……?」
その声に、木野宮は振り返った。呆然としている宮山を見て、いつも通りの笑顔を見せた。
「お父さんはね、全然すごい探偵なんかじゃなかったんだ。正真正銘の、嘘吐きだった」
「何を」
「そう……その子の父親、優秀で敏腕な探偵…怪盗の目の敵……そんな風に言われていた彼は、実はダメダメだったってワケ」
彰が一歩、木野宮に近付いた。また一歩、また一歩。
「その裏で、彼はとある怪盗と組んでいた。その怪盗と組む事で幾多もの同志を捕まえ、牢屋にぶち込んで……自分は有名になって富と栄誉を得た。……なんて酷い話だよね~」
「…………」
「そりゃ勿論その娘を目の敵にもするし、手を貸していた怪盗にも制裁を下す事になるよね? 当たり前だよね」
ね、と。
彰が木野宮の目の前まで来た。木野宮は、真剣な目付きで彼女を見ている。
「……本当なのか」
宮山は、震える唇で聞いた。
あの、木野宮探偵が?そんなまさか。彼は探偵皆が目指す目標だった。当時新聞で彼の名を見ない日などなかった。少なくとも宮山は、そんな彼に憧れていた。そんな彼の娘である木野宮 きのみの面倒を見ることを、誇りに思っていたのに。
「うん、本当」
目眩が、した。
「……そう、私達の目的は、怪盗の秩序を守ること。私、本当はそんなのどうだっていーんだけど。全てはそれに繋がること。……そこの女優さんだってそうだよ~? 私達を裏切ろうとしたから、こうやって制裁を受ける事になったんだもん」
「……ち、ちがう!!裏切ろうとなんてしてない!!誤解だわ!!誤解なのに!!」
「おや」
不穏。
それは、不穏と言わざるを得ない風。
そこにいた全員が、誰よりも女優がその声に真っ青になった。
コツコツと、ゆっくり床を踏む音。同時に影は、己の真っ白な姿を皆の瞳に映し上げた。
「それでは、舞台が終わる日付と同じ日のフライトチケット……偽造パスポートに偽造の通帳まで…まるで私には海外に逃げる手筈のように思えて仕方がなかったのですが、勘違いだったのですね」
その影、常盤 社。柔和な笑みが生んだとは思えない風を部屋に巻き起こし、嵐を告げる影。
「違う……違うのよ……」
「貴女のマネージャーが、吐いてくれましたよ。短剣を持って逃亡し、足を洗うつもりだったと……」
「何…………彼に何を…………!!」
「悲しい話だ。貴女もまた、あの短剣に魅入られたのですか?」
まるで、テレビを観ているような気分になった。
起こっていることが、事実が頭で呑み込めない。宮山 紅葉は、続く目眩に倒れそうになっていた。
「さて、貴女の処分は考えてあります。もう少し付き合ってもらいましょうか」
その敵、常盤 社。
視線に氷漬けにされてしまったかのようにさえ感じる。宮山は動かぬ己の身体を呪った。
だが、常盤の視線は宮山に向いているわけではない。影が見ているのは、たった一人。そこに立つ、たった一人の男である。
「壱川刑事。貴方もまた、怪盗の秩序の為に闘っている身なのでしょう。形は違えど、その志は美しい」
「…………そりゃどうも。だが裁くんだろう。アンタらの言う正義と秩序で」
「貴方と我々ではやり方が違う。そのやり方が問題なんです。貴方が刑事である以上、我々も安心して生活できませんし」
「よく言うよ、堂々と顔まで見せて…俺には捕まらない自信があると言っているように見える」
「……それはさておき」
常盤が燕尾服の内側に手を差し込んだ。明乃が反応するが、東雲が止める。
「目的は同じ同志。加えて貴方は実に優秀だ。……つまりは、スカウトですよ。私達と同じところに来るのなら、貴方を裁くことはできない。勿論、貴方のお仲間も」
それはどうだか。強がりの笑みに呼応して、常盤は笑う。
「この女は、悲劇の短剣を盗み、その後で国外逃亡を図る予定でした。それだけじゃない。仲間の情報を警察に渡すつもりでいた。何処から盗んだのやら、リストが部屋から出てきましたよ」
常盤が懐から出したのは、短剣だった。
そう、悲劇の短剣。ヒトに曰くを付けられた、あの短剣が。
「どころか……仲間を一人殺している。怪盗団の内の一人をね。見つからないようにしたつもりでしょうが……」
「そんな事してない!!」
「証拠もありますよ。どうせ、貴女の逃亡計画を知られて揉め事になったなんてオチでしょう。私を欺きたいのなら、もっと上手くやることです」
彰が壁に身を預けて、つまらなさそうにこちらを見ている。その隙を見て、東雲は部屋を見渡した。
「……それと俺に、何の関係が?」
「試験ですよ」
悲劇の短剣が、指で弾かれて宙を舞う。難なくそれを掴んだ壱川が、己の手で煌めくそれを見た。
「貴方にとっても、この女は貴方の正義に則っていない筈だ。……その剣でこの女を刺し貫いたなら、見事貴方は私たちの仲間入り。其方の方々も見逃すことにしましょう」
「…………」
「これからはもっとやり易くなりますよ。貴方のサポートもバッチリ致しますから。結局目的は同じなんです、悪い話ではないでしょう」
計算、計算、計算。
壱川の脳は既に計算を始めていた。この屋敷から全員が無事で出られる確率を。最低限の犠牲で他の連中を逃す算段を。己の正義と、仲間の安全。何を天秤にかけるべきなのか、どちらの方が重いのか。もっといい方法はないのか。
果たしてあの女を貫けば、自分は許されるのだろうか。
「さあどうぞ、ご決断を」
壱川は、思い出していた。
昔、木野宮という男がいた。彼は大学の教授の知り合いで、時折構内で見かけてはミステリー小説の話をした。
壱川が、怪盗に成り立ての頃の話だ。彼はそれを知って、壱川にある話を持ちかけた。
木野宮が手柄を立てられるように壱川が怪盗として手引きをする。報酬の分け前も勿論ある。木野宮は歳の若い壱川に頭を下げた。壱川はその話を、承諾した。承諾したのは金欲しさではない。そんなもの、怪盗業に片足を突っ込んだ時点で必要はなかった。
理由はただひとつ。
木野宮を愛し、木野宮によく引っ付いて回っていた小さな少女。
少女に、夢を見せてやりたいのだと。
木野宮はそう言ったのだ。
「…………俺は」
たったそれだけだった。悲痛な声にも聞こえた。少女が父親の話をする時の顔を思い出して、壱川もその気持ちに同調した。
それが行き過ぎた。木野宮は予想より名を挙げ、怪盗に目を付けられるようになり、早期の引退を余儀無くされた。
それでも少女の夢は守れたのだと思っていた。
ほんの軽い気持ちで始めた協定だった。それがひとりの少女の夢を守れるならそれも悪くないと思っていただけだ。だが、それが間違いだと漸く気付き、壱川が木野宮と手を切った頃から、ずっと引っかかっている。
それでも間違えてきた道を、自分はどうやって捩じ伏せてきただろう。今していることがその罪の償いだというのなら、本当にそれは意味を成しているだろうか。
してしまった事に変わりはない。同業者を売った。その所為で怪我を負った者もいる。
その償いなど、できるだろうか。ましてや少女の夢を守れていなかったと知った今、自分を守るものは何もなくなってしまった。
正論で、人は潰れる。
今になって壱川は、己を守る為の言い訳を、すべて失っている。
秩序を守る。それは、自分の間違いを償う為に、自分を守る為にしていることなのではないか。間接的に仲間を傷付け続けていた自分を、許したいが為に。
どうすればいい。どうにもならないことを。
手の中の短剣は、それでも煌めいていた。女優の恐怖を彩るように、散りばめられた宝石がライトに照らされている。
呆然と、それを見ているだけ。
「さあ」
声に、押し潰されそうになる。せめて自分ができること。来た道が崩れていく恐怖。
どうせ同じじゃないか。自分がしていたことは、目の前の影がしている事と。償いきれないのなら、せめて今此奴らを守った方が名誉なのではないか。
どうせもう、何もないのだから。
何にもなくなったのだからと、そう思ったその時。
手の中の輝きは、急に失われた。
「……………綾ちゃん?」
短剣は輝かなくなった。その剣の上から、誰かが蓋をしているのだ。細い手が、それでも頼りになるその手が、短剣の煌めきを隠すように。壱川の手ごと、包み込んで。
「…何迷ってんのよ、遵」
目眩が治った。鮮明になる視界に、震える水守の姿が映る。
「…………迷う必要なんかない。それじゃアンタが今までしてきたことは、全部なくなっちゃうじゃない。そんなの認めない。だってそれは、アタシが頑張ってきたことでもあるから」
「…………りょ」
「絶対認めない!ボサッとしてんな!!」
「えっちょっ何」
バキッ。嫌な音。良い音でもある。壱川は飛んだ。軽く吹っ飛んだ。同じく短剣も宙を舞い、地面に突き刺さる。呆気にとられた全員が、目をパチクリとさせてそれを見ていた。
「いっ……」
壱川が起き上がる。相当強く打たれたらしい。その頬は真っ赤に腫れ上がっていた。
「痛いなあ!? 今の本気だっただろ!?」
「本気も本気に決まってんでしょ!?アンタが遅いからみんな待ってて話進まないのよさっさとしなさいよ!!」
「だからって……口の中切れちゃったしシャレにならないくらい痛いよ!?」
「いいからさっさとするの!!いつもみたいに強がりでいいからなんとか言ってみなさいよ!!」
壱川は、思い出していた。
酷い雨が続く日に、駆け出しの怪盗と出会った夜。彼が殺されかけているのを見た。それも、壱川が一枚噛んでいた事件の話だ。だから卒なく動き回ることができた。
急に身体中に熱が駆け巡ったのを思い出す。何が自分を突き動かしたのかもわからないまま、気付けば壱川は駆け出しの怪盗の隣に立っていた。
守れるものは守りたいと、そう思ったのだ。
それは己で決めるべきだと。誰かに決められるべきでもない。誰かの為ではなく、自分の為に。
「アンタの相棒はアタシでしょ。ほら」
水守が差し出した手を見る。なんて単純なことだったのかと呆気に取られる。
嗚呼そうだ、今守りたいのは秩序なんてものだけじゃない。それはただの、手段のひとつに過ぎなかった。
「…………そうだな」
手を取る。確かに取った。自分の手で。
「……その通りだ。悪いが絶対にごめんだよ。誰かが傷付くのも、傷付けるのもこりごりだ」
今度は間違えないように。
「俺は俺のやり方でやる。悪いがもう相棒の枠は埋まっていてね」
「……残念です」
影が動く。
「それじゃあ此処にいる全員を、なんとかしなくちゃいけない」
「―――お前ら目閉じろ!!!」
声。爆発音。殆ど同時だったが、それでも全員がなんとか一歩退いて煙幕から逃れられた。叫んだのは東雲だ。一体何をと誰かが言い出す前に明乃が前へ出る。
「東雲君!」
「奥に扉があった!俺と明乃が残るからお前らは走って行け!」
「ダメだ、俺も残る!綾ちゃん、悪いけど木野宮さんと……」
「うるせえ!!」
東雲宵一は、燻っていた。いつまで黙ってりゃいいんだこれ。話なげーな。……そう思い始めてから、相当な時間が経っている。
「こちとらウズウズして堪んねえんだよ、邪魔すんな。つか足手纏いなんだよ!いいからさっさと行け!お前がなんとかしろ!わかったな!!」
壱川を力強く指差して、東雲は言った。ぽかんとしながらその指先を見ていた壱川が、水守の肩を掴む。今度は迷いのない瞳で、東雲を見た。今此処にいる彼は、間違っても駆け出しの怪盗なんかじゃない。
「……すまない、頼んだ」
「おう、任せとけ」
「行こう綾ちゃん。宮山さんに、木野宮さんも。さあ」
言って、壱川たちが煙幕の中へ消える。殆ど同時に、何かに弾かれ明乃が東雲の前へ戻って来た。
「……明乃、行けるか」
「うん、宵一さん、勿論だよ」
「よし……そんじゃあやっと出番だぜ」
その目は誰よりも爛々と輝いている。今から此処は、彼らだけの舞台になる。
「……困った人達だ」
影は、笑っていた。愉しんでいるのか、怒っているのか。真意が図れずとも、それは不穏でしかない笑みである。
「行こうぜ明乃、此処をお前用の最高の舞台にしてやる!」
「うん!頑張っちゃうよ~!」





続く!