とある回想の夜 弐

ずっと引っかかっていた。毎日毎晩、眠る前にあの子供の姿が目に浮かぶ。
背が高い方とは言え、あどけない顔が呆然とこちらを見つめている目が、突き刺してくるかのような痛みとなって頭の中に現れる。
東雲 宵一は、釈然としないまま今日を迎えた。
怪盗として、人間としての人生が大きく変わる、今日という日を。



猫猫事件帳 新章
とある回想の夜 弐



東雲が絵画を盗んだことは、一週間経っても新聞の見出しにはならなかった。それ自体が遺憾なのだが、それ以上に目を引くニュースで世間は賑わいを見せている。
盗みに入った家の家主が、自身の経営する病院にて不正が発覚。即日逮捕された、というニュースだ。
どうも、気分は良くなかった。
普段の東雲なら、天誅を下してやったと言わんばかりに高笑いをしつつも、ニュースの見出しになれなかったことに文句を言う場面だ。
しかしずっと気がかりなことがある。
手元の懐中時計を開いたり閉じたりしながら、東雲は呆然としていた。何度見ても、よくできた造りだ。値段もそれなりにするだろう。外側には製作者かブランド名か、はたまた持ち主の名前か、Y・Hと彫られている。
落ち着きながらも煌びやかな装飾は、間違っても子供が持つべきようなものではなかった。
「もうすぐ、これもとられちゃうから」
子供が言っていた言葉を思い出す。あの子供はもしかして、自分の親が不正を働き、捕まることを知っていたのではないだろうか。
病院の院長ともなる人物が捕まった後、その家族がどうなるかなんて想像もしたくない。だが、想像してしまうのだ。あの子供が言ったそれが、どういう意味を持っているのか。
東雲は懐中時計を閉じ、懐にしまった。勿論絵画を返してやる気はない。一度盗ったものは自分のものだ。しかしこれは違う。これは盗んだものではないし、東雲のものでもない。
偽善と言われればそれまでだ。悪党がしなくてもいいことをしようとしている。
わかっていて東雲は、言い訳もせずに夜の街を跳んだ。


---


暗くなった街の中でも、一等暗く感じる場所がある。それがあの屋敷だ。まだ人が起きていてもおかしくない時間だというのに電気も点けず、物音や人が居る気配もしない。
東雲は嫌な予感に眉を寄せながら、前と同じ侵入経路で難なく家に入った。
最低限の警戒を怠らないように、と自分に言い聞かせても、心の何処かでそんなものは不要だと語りかける自分がいる。
この屋敷にはもう誰もいない。そんな気がしていた。
暗い廊下の影が、まるで東雲の脚を掴み、そのまま引きずっているかのように感じる。あの子供がいなければ、それはそれでいいのだ。この懐中時計は貰う。それでこの話は終わる。
だけど、もしもいたらどうする?
どうもしない、これを返して、それで終わりだ。
自問自答が苦しい。「嫌な予感」に心拍数が上がっていくのを感じる。気のせいか埃臭くなった屋敷の階段を降り、ロビーに出る。しかし誰も見当たらない。豪華なシャンデリア紛いの照明は、それごと何処かに行ってしまったらしい。ろくに辺りを見渡せない程、屋敷は暗闇を抱いていた。
ドコデモヌキアシ君八号を出す。屋敷全体をスキャンしてみれば、東雲の「嫌な予感」が一つの赤色の点で表示されている。
二階にある、やたらと広い部屋だった。東雲が借りたマンションのリビングとさほど変わらない程の大きさだ。
東雲は抜き足を辞め、階段を上った。長い廊下の先に、件の部屋がある。試しに廊下の電気をつけようと試みるが、電気はもう通っていないらしい。明かりはつかなかった。仕方なく暗い廊下をまた歩けば部屋が見えてくる。部屋の扉には、可愛いいちごの飾り付けがしてあるプレートがかけられている。
ローマ字で、あけの。
そう書かれていた。それが、あの子供の名前なのだろう。東雲は意を決して扉を開けた。ただ、この懐中時計を返す為に。
「おい、入るぞ」
大きすぎるベッドが、埃と共に揺らめいた。
クマのぬいぐるみが床にひとつ。それ以外は何もない。違和感を覚えながら、東雲はベッドの隣へと足を進めた。
「おい……」
予想通り、懐中時計を渡してきた子供がそこにいた。ベッドに寝そべり、ちらりとこちらを見上げている。
前に見た時より髪はボサボサになっているし、パジャマもくたくただ。どうして、と言う前に、子供…あけのは起き上がった。
何度も瞬きをして、東雲を見ている。
「……サンタさん?」
「クリスマスはもう終わっただろ。いや、そんなことはどうでもいい。これを返しにきた、それだけだ」
懐中時計を突き出してやる。あけのはそれを見て、呆然としていた。
前より痩せた気もする。そもそも、こんな時間に親はどこに行ったのだろうか。父親は捕まったが、母親はいるはずだ。埃臭い部屋といい、物のなくなりようや電気がついていないのもおかしい。
この子供が、こんな風になっていることも。
推測は簡単だった。しかし東雲は、その事実から目を背けるかのように懐中時計を持つ手をあけのに更に近付けた。
早く、ここから立ち去りたかった。嫌な予感が的中する前に。
「……もういらない」
あけのが言う。なんだそりゃ、と肩を落としながら、東雲はベッドの傍に座った。
早くここから立ち去りたい。だが、それでいいのだろうか。
やはり悪党がする事ではない。しかし、東雲は悪党になりたくて怪盗になったわけではなかった。それを忘れるな、と自分に言い聞かせる。一度飲み込んだ言葉を、東雲はゆっくりと吐き出した。
「……親はどうした」
「おとうさんは、悪いことしたから連れていかれたの」
「母親は」
「おかあさんは……」
あけのは、東雲の目を見た。決して縋るような目でもなく、望むような目でもなかった。
「どこかに、行っちゃった」
それだけだった。あけのはようやく懐中時計を受け取り、指でそれを撫でた。
聞かなくても、わかっていたことだったと思う。
父親が捕まり、釈放金や賠償金も含め、払うべき金は死ぬ程あっただろう。母親はそれを見かねて、この子供を置いて何処かに去ってしまったのだ。家の物は母親が売ったのかもしれないし、差し押さえられたのかもしれない。とにかくあけのは、一人此処で一週間……もしくは、それ以上の期間を過ごしていたに違いなかった。
東雲は自身の頭を乱雑に掻いた。
もしもあのタイミングで、あの絵画を盗まなかったら。そんな不毛なことを考えたのだ。
そしたらあの絵は、こいつの母親が売り払ったかもしれない。その金があれば、こいつを連れて行くこともできたかもしれない。
もしもあのタイミングで、あの絵画を盗まなかったら…
「オニーサンは、泥棒なの?」
「あ? 怪盗と言え、怪盗と」
「かいとう」
「そうだ、お前も見たとおり、俺があの絵を盗んだ」
あけのはそっか、と言った。責める言葉も何もなかった。
謝るべきか、東雲は考えていた。謝る必要があるのかもわからない。絵画があったところで、この子供は置き去りにされたかもしれないのだから。
「何でも盗む?」
「嗚呼、気に入ったもんはな」
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「は?」
あけのはやはり、縋るような目も、望むような目もしていなかった。
「私のことも連れて行って」
「はあ!?」
思わず立ち上がれば、埃が舞う。あけのは力ない手で東雲の服を掴んだ。
「連れて行って」
「お前なあ……」
人攫いなんて……と、言おうとして考える。このまま此処に、この子供を置いて行ったとしてだ。その後、こいつはどうなるんだろうか。
警察の保護や父親の帰還が早いとは限らない。ましてや、今でさえこんな状況なのだ。
母親が帰ってくるかもわからない。こいつは此処でひとり、ただずっと待っているだけになる。
「いっぱいお手伝いするから」
「……そう言われてもな」
あけのは手を離さない。振りほどこうと思えばいつでもできる。それでも東雲はそうしなかった。できなかった。ありもしない負い目を、この子供に感じている。
「もう、この家には誰も帰ってこないの。だから私も帰らない」
意味は、よくわからなかった。だが、なんとなくあけのの言葉が突き刺さる。東雲も、そんな気がしている。
「連れて行って……」
結局、答えなんてものはひとつしかないのだ。選択肢なんてものは、最初から用意されていなかった。
東雲はぼさぼさになったあけのの髪を撫でた。今更、人攫いも同じだと思うしかない。
ひとつの命が潰える可能性を見過ごすより、怪盗として、自分の矜持を貫く方がまだましだ。
気付けば夜を駆けていた。やたらと明るい月に姿を晒されながら、それでもそれを喜ぶあけのに抗えず、身も隠さず駆けた。
普通に生きて、普通に大人になったら解放してやればいい。手伝いなんて不要だ、ただ、普通に暮らせるようにしてやればそれで。
そう、思いながら。


---


「宵一さん、これ壊れちゃって」
「どれだ」
明乃が差し出した手に、東雲が顔を寄せる。手の中からはくすんだ色の懐中時計が出てきた。
申し訳なさそうに笑う明乃をよそに、東雲の顔が曇る。ふんだくるようにそれを貰い受けて、早速細かいパーツ用の工具を探した。
「時計なあ……専門の人間に直してもらったほうがいいんだろうが……これが何処の誰が作って、何処で売ってる時計かもわからないんじゃな」
「町の時計屋さんだったとは思うんだけど……うーん……あんまり覚えてないなあ。一緒に買いに行ったんだけど」
何処だったかな?と明乃が首を傾げる。東雲は背を向け、パーツを分解しながらやはり眉を寄せた。
明乃の両親がどうなったのか、東雲は知らない。明乃も知らない。今になって調べることもできるが、明乃が捜索されていないこと自体がその答えとなっているからだ。
不必要な情報だと勝手に判断するのもどうかと悩んでいたこともあった。だが、明乃自身、その話をしたことはない。
明乃も、気付いているのだろう。もしくは、東雲も知らない何かがあるのかもしれない。
詮索はしなかった。それこそ不要だ、と思う。
此処にいるのは、あの時ボロボロになっていた子供ではない。東雲 宵一の相棒にして怪盗、明乃だ。
思っていた以上の身体能力や洞察力は結果的に東雲を助ける形となった。そしてそれが普通の生活とかけ離れているとしても、明乃自身なんの不満もないというのだからもういいだろう。
「ほら、動くようにはなったぞ」
「わあい!ありがとう!お守りみたいなものだから、動いてないとなんとなく不安で……」
いや、本当にいいのだろうか。
この道をこのまま行って、それでいいのだろうか。明乃が今こうしているのは、自分のせいである他にないというのに。
巻かれた包帯が視界に入り、思わず目を逸らしてしまった。誰のせいで、なんていうのはそれこそ不毛だ。明乃が選んだ道なのだから、口出しすることは間違っている。はずだ。
「宵一さん宵一さん」
「なんだよ」
ただ、前より笑うようになった。感情が表にたくさん出るようになった。友達ができた。料理が上手くなった。趣味が増えた。
「これでまた、頑張れるよ!」
それ以上に望むものは、今は何もない。
「おう。そうだな」
だから東雲 宵一は、今日も相棒とこの部屋で暮らしていく。




猫猫事件帳
とある回想の夜