とある回想の夜 壱

祈りに似ていた。
ただそれは、祈りにしてはあまりに幼く、あまりに切実で、あまりに純粋すぎるものだった。
東雲 宵一は、今もまだその祈りの意味を飲み込めず、消すこともできず、捨てることもできずにいる。
祈りに似ていた。
少女とも少年とも付かぬその子供は、他の誰でもなく、東雲 宵一に祈ったのだ。
たった一言、どうか連れて行ってくれ、と。



猫猫事件帖 新章




「おい明乃、家事はいいって言っただろ」
東雲の声が静かに響く。決して狭くはない部屋だ。上質なマンションの一室は、二人で住むには少し広いくらいだった。しかしここに住んでいるのは、東雲が作った発明品や、作業する場所が大半を取るというのが理由であり、もとより大人数で暮らす予定などどこにもない。その作業場にされている一室は混沌に違いないが、やはり他の部屋は二人で暮らすには少し広すぎた。こうして声を届けるのにも、多少声を張らなければならない。しかし明乃はその一言一句を聞き逃さず、キッチンからひょっこりと顔を出して東雲を見た。
怒っているとも、悲しんでいるともつかぬ表情だった。東雲の言葉に明乃は困ったように笑うしかない。どうにも、明乃はいつも通りというわけではないようだ。
「だって、動いてないと落ち着かなくて……それに大丈夫だよ!宵一さんが作るご飯食べるよりはこっちの方が元気になるよ!」
「誰の飯が不味いってえ? オイ。別にその気になりゃ出前でもなんでもとればいいだろ、とにかく安静にしてろ、わかったな」
「はーい!このプリン作り終わったらね!」
「晩飯ですらないじゃねーか!!ベッドに戻れ馬鹿!!」
いつも通りの会話、いつも通りの時間。にしてはぎこちなく。身体中に包帯や絆創膏を貼り付けた明乃は、東雲の言葉をはぐらかしてプリン作りに戻った。
あの事件から、一週間が経った。傷口の痛みは殆ど消えたが、その殆どはまだ癒えきっていない。聞いた話、他のメンバーは各々大した怪我もなく済んだそうだが、一番酷かったのは明乃だった。
とはいえ致命傷を受けたわけでもない。確かにボロボロだったが、そのうちすぐに塞がるものばかりだろう。
だが明乃には明乃の"事情"があった。明乃は、保険証や身分証を持っておらず、尚且つ怪盗という犯罪真っ只中の生活を送っているため、病院に行けないのだ。
いや、もっと言えば他の理由もある。しかしとにかく、病院に行けないというのがまたネックだ。帰ってからボロボロになった身体を東雲が無口に、仏頂面で手当てしてくれたことを思い出す。この空気ばかりは明乃も苦手だった。申し訳なさ、やるせなさ、沢山のものが今もまだ明乃の中に渦巻いている。
そしてまた、東雲も。あの日のことを、忘れずにはいられないのだ。



時は、東雲が高校を卒業間近に控えた頃に戻る。当時、進学を当たり前のように拒否した東雲は人生最後の冬休みを怪盗として満喫していた。一足早く家を出て借りたマンションの一室は広いとも綺麗とも言い難かったが、やはり初めての一人暮らしだ。不安よりも楽しいことの方が多い。薄い壁は色んな音を通すが、まあ東雲の高笑いに怒る隣人もいない。隣室は空っぽだ。思いながらなんとなく窓を開けると外から風に乗せて笑い声が聞こえる。クリスマスも近く、街が賑わい、人目が多い時期だ。東雲はそんな世間と己を切り離し、どうでもいいと吐き捨てて窓を閉めた。
この頃の東雲の情報源は主に三つ。インターネット、新聞記事、そしてテレビ。どれも似たようなものだが、片っ端から確認して目星を付ける。それしかないからそうしているだけだが、案外怪盗というのもそこまで派手な職業じゃないのかもしれない。新聞を広げながら東雲はそう思う。新聞の見出しは芸能人の結婚報道。二枚目にはオリンピックの情報。他のページを流し見して、最後に四コマ漫画を読む。ダメだと放り投げて次の新聞を読む。この繰り返しだ。政治の話、怪しい広告、どれもつまらないものばかりで、東雲の目を引いたのはたった一項目しかなかった。
あまり大きな見出しではない。しかしそこにあるモノクロの写真に、たまたま目が止まったのだ。慌てて記事を読めば、大病院の院長が家に置く絵画が鑑定の結果、一千万円を超えるものだと判明。それを記念にこの絵画が年始から少しの間とある美術館に展示されることになったらしい。
成る程。東雲は新聞を閉じて一息つくと、これだ!と言わんばかりにガッツポーズをした。早速日取りを決めようとスケジュール帳を開き、衣装を確認し、発明品を選んでいく。
展示なんて待てるものか、その前に盗んで、自分の見出し一面を飾ってやる!
東雲は上機嫌だった。なんせ久しぶりの獲物だ。とにかく今は一刻も早く衣装に袖を通して、夜の街を駆けたい。そんな気持ちでいっぱいいっぱいだった。
準備は三日で済ませた。家の位置や構造の把握、警備員がいる時間や見回るルートまで、すべて三日で把握した。思ったより骨のないお宝だと思いながらも、気持ちは止められない。なんせあの大病院の院長の家だ。絵画以外にも色々あること間違いない!再びガッツポーズを決めながら、東雲は付近にて警備の様子を伺う。
しかしこの日、何故か警備は人っ子ひとり姿を見せなかった。罠だろうか。件のチェス人形の一件を思い出し、警戒する。東雲はあの一件で肩をやられた。とはいえ今は問題なく動くのだが、時折気まぐれに痛む時がある。その一瞬こそが命取りになるだろうと、東雲自身が一番よくわかっていた。しかしそれは不安ではなく逆境に対する好奇心と疼きだ。なんら問題はない。今ここで罠が張られていたとしても、それは飛び越えるべき壁であって逃げ出すべき敵ではない。東雲は軽々と塀を越えて敷地内に入った。
一般人が住んでいるとは思えないほどの豪邸だ。一体何人家族なんだと言わんばかりの屋敷は、またあの事件を思い出す。今度はしくじらない。前よりも念入りに調べてきたし、発明品も再調整した。そう、このドコデモヌキアシ君八号が、事前に屋敷に侵入し、館の内部をスキャンして東雲のパソコンに屋敷の全貌を送ってくれているのだ。家族構成は院長、妻、子供が二人の四人だけ。加えて屋敷に住み込んでいる従者が三人。更に警備員もいるはずだが、今日はお見えにならないようだ。携帯をチェックしていざ参らんと跳躍する。勿論、東雲に跳躍なんて大層なものができるほどの身体能力はない。これは脚を補助する為に作ったイツモイツデモトベル君二十四号のおかげである。なんなく屋敷の屋根に着地。事前に調べておいた小窓から、侵入を果たす。
抜き足差し足忍び足。皆が寝静まる時間だ。東雲は注意深く周りを観察しながら進むが、やはり警備は見当たらなかった。どころか、ドコデモヌキアシ君八号の情報更新によると現在屋敷にいるのは五人だけ。二人はお出かけか、はたまた従者が休みなのか。年末も近い、実家に帰ったなんてこともあるかもしれない。これはラッキーだ。東雲は軽い足取りで家内を探索した。
異変という異変は、ない。寧ろ蓋を開けば広いだけの家だ。過度な装飾もなければ、置いてあるものの大半に価値のありそうなものなどなかった。寧ろそれが異変というべきか。一千万円を超える絵画を所有している家にしてはあまりに"質素すぎる"。いや、物が少なすぎるというべきか。まさかどこかに引っ越しなんてしたわけじゃないだろうな。思いながら階段を下っていくと、玄関先のロビーへと辿り着いた。ロビー中央へ繋がる二本の階段の間の踊り場に、絵画が掛けてある。間違い無く、モノクロで見た写真と違いない絵画だ。
しかしやはり、家の中には人っ子ひとり見えない。周りに警備はいないし、あまりに静かすぎる。東雲はより注意深く警戒した。防犯装置の確認を行い、何もないことを確認する。何かがおかしい。何かがおかしくないか。
次第に心臓の音が大きくなっていった。物音ひとつしない。不気味で仕方がない。東雲は絵画に手を伸ばした。これから来るであろう"何か"から、逃げなければいけないような、しかしここで逃げてはいけないような、そんな予感がしたのだ。
指先が遂に、絵画をなぞる。その瞬間だった。
「……こんにちは」
声に心臓が跳ねる。東雲は後方に下がり、警戒した鋭い目付きでその場を睨みつけた。
「……なんだよ驚かせやがって」
冷や汗が垂れる。そこにいる少女とも少年ともつかぬ子供は、東雲を曇りなき目で見つめていた。
しかしそれすらも不気味だ。こんな屋敷に住んでいるとは思えない容姿をしている。伸びた髪は伸ばしているというより、切らずに放置しているような印象を与えた。ボロボロの衣服は、新しいものを与えられずただそれを着るしかないのだろうというような。
曇りなきその目は、曇るべき場所にいながら、何を恨めばいいのかすら教えてもらえなかったような。そんな、不気味さが。
「……サンタさん?」
「あ? 今日は23日だろ、普通サンタってのは24日から25日の夜にかけて……いやそれは家によるのか。ってそんなことはどうだっていいんだよ、子供がこんな時間に起きてるんじゃねえ」
あしらうか、眠らせてそっとしておくか。東雲は数歩、子供に近付いてその姿を見下ろした。
「自分の部屋に帰れ。そんで早く寝ろ。わかったな」
東雲はもう一度絵画に手を掛けた。いとも容易く外れた絵画を脇に抱えて、出口を目指す。子供を横切り、一声もかけずにその場を去ろうとする。
去ろうとした。
「フギャッ!」
足が滑ったなんてものじゃない。東雲は勢いよくその場に転び、頭を打った。不自然すぎるほどに勢いよく、だ。
「……いッてえな!」
そしてかぶる影にギョッとする。子供が、まだそこにいた。そこにいて、東雲のマントを引っ張っている。
冗談ではない、と思った。今の力は、こんな子供が引っ張ったなんてものじゃない。それこそ大男に引っ張られたのならわかる。だが東雲は受け身を取る間もないほど勢いよく転ばされた。この子供によって。この子供の、怪力によって。そんなことあるだろうか。それともただの勘違いで、自分で勝手に勢いよく転んだだけだろうか。嗚呼、アタマが痛い。
「お願いがあるの」
子供は舌ったらずな口でそう言った。
「これを持っていって」
相変わらず、曇りのない目だった。淡々とした話し方にはやはり不気味さを覚える。まるでロボットと話しているようだとすら思う。この子には感情がないのか、それとも……こんな容姿をしていては、いろいろな可能性が浮かび上がっては消えていく。自分には関係のないことだと言い聞かせながらも、この子供の凄惨な生活など、想像するのは難しくなかった。
「…………時計?」
子供が差し出したのは、懐中時計だ。この家……見た目はともかく、あまりに物が少なく、質素すぎるほどの家にあるとは思えないほど上質な時計だった。開けば中には細かな装飾が施してあり、一目見ただけで高価なものだとわかる。
「もうすぐ、これもとられちゃうから」
何を、と言おうとして、二階から聞こえる足音にハッとする。誰かがこちらに向かってきている。
「ママがくれたの。だから」
言い切る前に走る。絵画を持って二階へ。三階へ。そして入口にもなった小窓へ。飛び出て月に浮かび上がり、そして塀を越えて走る。頭の中にあったのは、肩を通った弾丸の痛みだけだった。東雲は息つく間もなく帰宅した。持ち帰った絵画をベッドに投げ、マントを脱ぎ去る。急激に痛む肩を抑えながら、金属音に目が眩む。
東雲は床に転がった懐中時計に、嫌な予感がした。まだ終わらない。まだ何かある。不気味さがずっと身体を纏わり付いて離れない。やがてそれは身体中を這い回り、首に手を掛け息を止められてしまいそうになる程。

これは祈りの物語。
ふたりの運命を変えた、たったそれだけの物語。