とある回想の夜 壱

祈りに似ていた。
ただそれは、祈りにしてはあまりに幼く、あまりに切実で、あまりに純粋すぎるものだった。
東雲 宵一は、今もまだその祈りの意味を飲み込めず、消すこともできず、捨てることもできずにいる。
祈りに似ていた。
少女とも少年とも付かぬその子供は、他の誰でもなく、東雲 宵一に祈ったのだ。
たった一言、どうか連れて行ってくれ、と。



猫猫事件帖 新章




「おい明乃、家事はいいって言っただろ」
東雲の声が静かに響く。決して狭くはない部屋だ。上質なマンションの一室は、二人で住むには少し広いくらいだった。しかしここに住んでいるのは、東雲が作った発明品や、作業する場所が大半を取るというのが理由であり、もとより大人数で暮らす予定などどこにもない。その作業場にされている一室は混沌に違いないが、やはり他の部屋は二人で暮らすには少し広すぎた。こうして声を届けるのにも、多少声を張らなければならない。しかし明乃はその一言一句を聞き逃さず、キッチンからひょっこりと顔を出して東雲を見た。
怒っているとも、悲しんでいるともつかぬ表情だった。東雲の言葉に明乃は困ったように笑うしかない。どうにも、明乃はいつも通りというわけではないようだ。
「だって、動いてないと落ち着かなくて……それに大丈夫だよ!宵一さんが作るご飯食べるよりはこっちの方が元気になるよ!」
「誰の飯が不味いってえ? オイ。別にその気になりゃ出前でもなんでもとればいいだろ、とにかく安静にしてろ、わかったな」
「はーい!このプリン作り終わったらね!」
「晩飯ですらないじゃねーか!!ベッドに戻れ馬鹿!!」
いつも通りの会話、いつも通りの時間。にしてはぎこちなく。身体中に包帯や絆創膏を貼り付けた明乃は、東雲の言葉をはぐらかしてプリン作りに戻った。
あの事件から、一週間が経った。傷口の痛みは殆ど消えたが、その殆どはまだ癒えきっていない。聞いた話、他のメンバーは各々大した怪我もなく済んだそうだが、一番酷かったのは明乃だった。
とはいえ致命傷を受けたわけでもない。確かにボロボロだったが、そのうちすぐに塞がるものばかりだろう。
だが明乃には明乃の"事情"があった。明乃は、保険証や身分証を持っておらず、尚且つ怪盗という犯罪真っ只中の生活を送っているため、病院に行けないのだ。
いや、もっと言えば他の理由もある。しかしとにかく、病院に行けないというのがまたネックだ。帰ってからボロボロになった身体を東雲が無口に、仏頂面で手当てしてくれたことを思い出す。この空気ばかりは明乃も苦手だった。申し訳なさ、やるせなさ、沢山のものが今もまだ明乃の中に渦巻いている。
そしてまた、東雲も。あの日のことを、忘れずにはいられないのだ。



時は、東雲が高校を卒業間近に控えた頃に戻る。当時、進学を当たり前のように拒否した東雲は人生最後の冬休みを怪盗として満喫していた。一足早く家を出て借りたマンションの一室は広いとも綺麗とも言い難かったが、やはり初めての一人暮らしだ。不安よりも楽しいことの方が多い。薄い壁は色んな音を通すが、まあ東雲の高笑いに怒る隣人もいない。隣室は空っぽだ。思いながらなんとなく窓を開けると外から風に乗せて笑い声が聞こえる。クリスマスも近く、街が賑わい、人目が多い時期だ。東雲はそんな世間と己を切り離し、どうでもいいと吐き捨てて窓を閉めた。
この頃の東雲の情報源は主に三つ。インターネット、新聞記事、そしてテレビ。どれも似たようなものだが、片っ端から確認して目星を付ける。それしかないからそうしているだけだが、案外怪盗というのもそこまで派手な職業じゃないのかもしれない。新聞を広げながら東雲はそう思う。新聞の見出しは芸能人の結婚報道。二枚目にはオリンピックの情報。他のページを流し見して、最後に四コマ漫画を読む。ダメだと放り投げて次の新聞を読む。この繰り返しだ。政治の話、怪しい広告、どれもつまらないものばかりで、東雲の目を引いたのはたった一項目しかなかった。
あまり大きな見出しではない。しかしそこにあるモノクロの写真に、たまたま目が止まったのだ。慌てて記事を読めば、大病院の院長が家に置く絵画が鑑定の結果、一千万円を超えるものだと判明。それを記念にこの絵画が年始から少しの間とある美術館に展示されることになったらしい。
成る程。東雲は新聞を閉じて一息つくと、これだ!と言わんばかりにガッツポーズをした。早速日取りを決めようとスケジュール帳を開き、衣装を確認し、発明品を選んでいく。
展示なんて待てるものか、その前に盗んで、自分の見出し一面を飾ってやる!
東雲は上機嫌だった。なんせ久しぶりの獲物だ。とにかく今は一刻も早く衣装に袖を通して、夜の街を駆けたい。そんな気持ちでいっぱいいっぱいだった。
準備は三日で済ませた。家の位置や構造の把握、警備員がいる時間や見回るルートまで、すべて三日で把握した。思ったより骨のないお宝だと思いながらも、気持ちは止められない。なんせあの大病院の院長の家だ。絵画以外にも色々あること間違いない!再びガッツポーズを決めながら、東雲は付近にて警備の様子を伺う。
しかしこの日、何故か警備は人っ子ひとり姿を見せなかった。罠だろうか。件のチェス人形の一件を思い出し、警戒する。東雲はあの一件で肩をやられた。とはいえ今は問題なく動くのだが、時折気まぐれに痛む時がある。その一瞬こそが命取りになるだろうと、東雲自身が一番よくわかっていた。しかしそれは不安ではなく逆境に対する好奇心と疼きだ。なんら問題はない。今ここで罠が張られていたとしても、それは飛び越えるべき壁であって逃げ出すべき敵ではない。東雲は軽々と塀を越えて敷地内に入った。
一般人が住んでいるとは思えないほどの豪邸だ。一体何人家族なんだと言わんばかりの屋敷は、またあの事件を思い出す。今度はしくじらない。前よりも念入りに調べてきたし、発明品も再調整した。そう、このドコデモヌキアシ君八号が、事前に屋敷に侵入し、館の内部をスキャンして東雲のパソコンに屋敷の全貌を送ってくれているのだ。家族構成は院長、妻、子供が二人の四人だけ。加えて屋敷に住み込んでいる従者が三人。更に警備員もいるはずだが、今日はお見えにならないようだ。携帯をチェックしていざ参らんと跳躍する。勿論、東雲に跳躍なんて大層なものができるほどの身体能力はない。これは脚を補助する為に作ったイツモイツデモトベル君二十四号のおかげである。なんなく屋敷の屋根に着地。事前に調べておいた小窓から、侵入を果たす。
抜き足差し足忍び足。皆が寝静まる時間だ。東雲は注意深く周りを観察しながら進むが、やはり警備は見当たらなかった。どころか、ドコデモヌキアシ君八号の情報更新によると現在屋敷にいるのは五人だけ。二人はお出かけか、はたまた従者が休みなのか。年末も近い、実家に帰ったなんてこともあるかもしれない。これはラッキーだ。東雲は軽い足取りで家内を探索した。
異変という異変は、ない。寧ろ蓋を開けば広いだけの家だ。過度な装飾もなければ、置いてあるものの大半に価値のありそうなものなどなかった。寧ろそれが異変というべきか。一千万円を超える絵画を所有している家にしてはあまりに"質素すぎる"。いや、物が少なすぎるというべきか。まさかどこかに引っ越しなんてしたわけじゃないだろうな。思いながら階段を下っていくと、玄関先のロビーへと辿り着いた。ロビー中央へ繋がる二本の階段の間の踊り場に、絵画が掛けてある。間違い無く、モノクロで見た写真と違いない絵画だ。
しかしやはり、家の中には人っ子ひとり見えない。周りに警備はいないし、あまりに静かすぎる。東雲はより注意深く警戒した。防犯装置の確認を行い、何もないことを確認する。何かがおかしい。何かがおかしくないか。
次第に心臓の音が大きくなっていった。物音ひとつしない。不気味で仕方がない。東雲は絵画に手を伸ばした。これから来るであろう"何か"から、逃げなければいけないような、しかしここで逃げてはいけないような、そんな予感がしたのだ。
指先が遂に、絵画をなぞる。その瞬間だった。
「……こんにちは」
声に心臓が跳ねる。東雲は後方に下がり、警戒した鋭い目付きでその場を睨みつけた。
「……なんだよ驚かせやがって」
冷や汗が垂れる。そこにいる少女とも少年ともつかぬ子供は、東雲を曇りなき目で見つめていた。
しかしそれすらも不気味だ。こんな屋敷に住んでいるとは思えない容姿をしている。伸びた髪は伸ばしているというより、切らずに放置しているような印象を与えた。ボロボロの衣服は、新しいものを与えられずただそれを着るしかないのだろうというような。
曇りなきその目は、曇るべき場所にいながら、何を恨めばいいのかすら教えてもらえなかったような。そんな、不気味さが。
「……サンタさん?」
「あ? 今日は23日だろ、普通サンタってのは24日から25日の夜にかけて……いやそれは家によるのか。ってそんなことはどうだっていいんだよ、子供がこんな時間に起きてるんじゃねえ」
あしらうか、眠らせてそっとしておくか。東雲は数歩、子供に近付いてその姿を見下ろした。
「自分の部屋に帰れ。そんで早く寝ろ。わかったな」
東雲はもう一度絵画に手を掛けた。いとも容易く外れた絵画を脇に抱えて、出口を目指す。子供を横切り、一声もかけずにその場を去ろうとする。
去ろうとした。
「フギャッ!」
足が滑ったなんてものじゃない。東雲は勢いよくその場に転び、頭を打った。不自然すぎるほどに勢いよく、だ。
「……いッてえな!」
そしてかぶる影にギョッとする。子供が、まだそこにいた。そこにいて、東雲のマントを引っ張っている。
冗談ではない、と思った。今の力は、こんな子供が引っ張ったなんてものじゃない。それこそ大男に引っ張られたのならわかる。だが東雲は受け身を取る間もないほど勢いよく転ばされた。この子供によって。この子供の、怪力によって。そんなことあるだろうか。それともただの勘違いで、自分で勝手に勢いよく転んだだけだろうか。嗚呼、アタマが痛い。
「お願いがあるの」
子供は舌ったらずな口でそう言った。
「これを持っていって」
相変わらず、曇りのない目だった。淡々とした話し方にはやはり不気味さを覚える。まるでロボットと話しているようだとすら思う。この子には感情がないのか、それとも……こんな容姿をしていては、いろいろな可能性が浮かび上がっては消えていく。自分には関係のないことだと言い聞かせながらも、この子供の凄惨な生活など、想像するのは難しくなかった。
「…………時計?」
子供が差し出したのは、懐中時計だ。この家……見た目はともかく、あまりに物が少なく、質素すぎるほどの家にあるとは思えないほど上質な時計だった。開けば中には細かな装飾が施してあり、一目見ただけで高価なものだとわかる。
「もうすぐ、これもとられちゃうから」
何を、と言おうとして、二階から聞こえる足音にハッとする。誰かがこちらに向かってきている。
「ママがくれたの。だから」
言い切る前に走る。絵画を持って二階へ。三階へ。そして入口にもなった小窓へ。飛び出て月に浮かび上がり、そして塀を越えて走る。頭の中にあったのは、肩を通った弾丸の痛みだけだった。東雲は息つく間もなく帰宅した。持ち帰った絵画をベッドに投げ、マントを脱ぎ去る。急激に痛む肩を抑えながら、金属音に目が眩む。
東雲は床に転がった懐中時計に、嫌な予感がした。まだ終わらない。まだ何かある。不気味さがずっと身体を纏わり付いて離れない。やがてそれは身体中を這い回り、首に手を掛け息を止められてしまいそうになる程。

これは祈りの物語。
ふたりの運命を変えた、たったそれだけの物語。

オペラ座の歌姫失踪事件 終幕

その男の世界は完成していた。この世に生を受けてから、既に完成しきっていた。男にできることは、その均衡を守ることだけだ。だからそれを使命のように、或いは義務のように遂行していく。満足感も充実感もない。それは男をこの世に留めるただひとつのライフワークだ。
その少女の世界は崩れていた。元からそこにあったものが全て焼け落ちてしまったような虚しさに、少女が出来ることは新しいものを築くことだけだった。だからそれに執着し、或いは渇望してその完成を見守っている。満足感も充実感もない。それでもそれだけが、少女をこの世に留める、ただひとつの方法だった。




猫猫事件帖 オペラ座の歌姫失踪事件
終幕




途切れる息が焦りを波立たせる。流れる汗など気にしてはいられないのに、煩わしすぎて汗を拭う他なかった。ありとあらゆることが身体に纏わり付いて離さない。どんどんがんじがらめになっていくようで胸が苦しくなる。これが焦りだとも、苦しみだともわからなかった。ただそこにいるその影は、己の脳に命令を下す他ない。倒せ、勝て。それだけでいい。
「明乃!!」
呼ばれてハッとした。同時に勝手に身体が半回転する。地面に突き刺さったナイフの位置が先程まで自分が立っていた場所だと気付いて血の気が引いた。それは目の前の敵からの、初めての悪意だった。
「遊んでいる場合ではないんですよ」
怒っているのか、楽しんでいるのか。敵は未だ笑ったまま、白い燕尾服に汚れのひとつすら付けず悠々と立っている。これには流石の東雲も腹が立った。が、今はそんなことにキレている場合ではない。明乃の様子がおかしい。少なくとも、いつも通り全力を発揮できているとは感じなかった。
「明乃、落ち着け」
「うん、大丈夫だよ、宵一さん」
明乃がナイフを持ち直す。先程から状況はいい方には転んでいなかった。なんせ敵、常盤 社は余裕綽々と攻撃をかわすばかりで、一方的に此方の体力が削られていく以外に何も起きていないからだ。ナイフを振るい、軽々と常盤がそれを避ける。永遠に繰り返せば繰り返す程、明乃は体力よりも精神を削られていった。
無理もない。東雲は思う。明乃の人並みではない身体能力を前に、ここまで余裕でいられる人間など今までいなかったからだ。勿論想定していなかったわけじゃない。しかし明乃は違うだろう。目の前にあるどうすることもできない壁に、焦りを感じている。本当に勝てるのか、本当に倒せるのか?疑問が不安に変わり、不安が焦燥になる。結果、明乃はいつも通りの能力を発揮できず、場面は拮抗していた。
「どうしたのですか? 早く貴方がたも彼らを追いかけなくては。うちの彰が、彼らに追い付く前に」
「…………」
明乃がナイフを握る手に力を込めた。東雲は変わらず冷静にこの場を観察している。東雲が冷静でいられるのは、この状況が"ある程度予想の範囲内だった"からだ。
常盤の実力は初めて見るが、件の短剣の一件でかなりの実力があるのだろうと見ていた。だからそれに明乃が届かなくてもおかしくはない、更に、明乃がそれに膝を折りそうになる事"まで"は読んでいた。そう、この先だ。この先、常盤がどうでるのか。行動を起こす前に自分が行動を起こすべきなのか、それとも奴が行動を起こすのを待つべきなのか。
東雲は明乃を見た。恐怖とも苛立ちとも付かない瞳には覚えがある。そう、まるであの日の自分だ。なす術をなくした時の。初めてぶつかった壁に痛みを感じた時の。あの館で銃口を向けられた時の自分と―――同じなのだ。
それは歯痒さ。恐怖より、痛みより、苛立ちより、悲しみより。何より自分の刃が相手に届かないと知った時の歯痒さが、苦しさが。たったそれだけが、自分の首を絞めて、辛いんだろう。
東雲は決めた。あの日の自分を見て、ここで何をすべきなのか。答えなんてもう一つしかなかった。
「嗚呼、もう少しやり手かと思っていましたが、案外こんなものですか。それについては少し残念です」
常盤が煽るように言い放つ。明乃の眉がぴくりと動いた。
「所詮、生温いやり方で生温い現場を渡ってきたに過ぎない、貴方たちでは私に勝てませんよ。それくらいもうわかったでしょう」
「うるさいな!そんなことない!!」
明乃が遂に爆発した。不安が、焦燥が、溢れ出して止まらない。だがそれでも東雲は変わらなかった。あの日を思い出す。嗚呼、そうだ、あの日、あの酷い雨の日はーーー
「今じゃないだけだ」
飛び出そうとしていた明乃が立ち止まる。そこにいる東雲 宵一は、間違ってもあの日の東雲 宵一ではない。
「こんなもんじゃねえ、明乃も、俺も。ただ、今じゃないだけだ」
「成る程、ですが今切り抜けなければいけないというのに、どうするつもりですか?」
「おい、白髪野郎」
あの日、無力さに唇を噛んだ子どもも、それを気まぐれに助けた怪盗もここにはいない。
「お前はいつかぜっっっっったいぶん殴る!!!!覚えとけよ!!!!」
言い終わると同時に、東雲は手に持っていたスイッチを押した。ぽにゅ、と間抜けな音がした押されたスイッチに常盤はおや、と目を見開く。
爆発。爆風。熱が常盤を取り囲んだ。元々老朽化が進んでいた館はいとも簡単に崩れ、そこら中に穴が開く。東雲は明乃の手を取った。同時に囚われの歌姫を引き寄せ、無理矢理立ち上がらせる。瓦礫に阻まれ、それでも進もうともがく。呆然としていた明乃は、握り締められた手の熱に目を覚ました。気付けば東雲と歌姫は明乃の腕の中にすっぽりと収まっており、半分引きずられる形で無理矢理外への脱出を達成した。埃まみれになった服をはらう暇もなく崩れた館を見る。
まだ、脳裏にあの不気味な笑みが焼き付いて離れない。歌姫は呆然と地面を眺めては、未だ震える脚を放り出していた。
「クソ、改良の余地があるな…派手にやり過ぎた」
呑気に そんな愚痴を呟いては、東雲は差し出された明乃の手を取って立ち上がった。


***


彰が四人に追い付くのに、そう時間はかからなかった。この館に出入りするのは初めてではない為、先回りすら簡単だった。目の前に立ちはだかる彰に、四人は焦りを顔に出し、一度立ち止まる。彰はといえば、そんな顔を見渡して溜息をひとつ、この場に吐き捨てた。どうして世の中は、こうも上手くいかないのだろうか。
「はい、私の勝ち。大人しくさ、あいつの言う事聞いてればよかったのに。約束は守る方だから、本当に他の人は見逃してくれたと思うよ?」
その責めるような言葉に壱川が怯む。一対四。全体で見ても二対六。文句無しに有利なのはこちらのはずだ。だが何故だかそんな気がしない。初めから、この少女と燕尾服の男が放つ異様さに全員が呑まれていたような気がする。
「……まだ遅くないよ。小さな探偵さん。貴女とそこの刑事さんだけでも大人しく捕まっときなよ。そしたらこんなつまんない鬼ごっこ、すぐに終わるんだからさ」
ね?と、彰が半ば呆れながら言った。常盤のようににこやかに笑うわけでもなく、ただ心底気怠そうにそこに立っている。髪をなびかせて、丸い瞳で四人を釘付けにした。
こんな馬鹿らしい遊びに付き合う為に怪盗になったわけではない。彰は思う。じゃあ何のために?問いかけても答えは返ってこない。薄々気付いているのだ。ここに自分の求めるようなものなんてのは、最初からなかったんだと。だから退屈なのだ。毎日、毎日、毎日が退屈だ。張り合えるほどかと思った相手もこの程度では、欠伸が出る前に脳が止まってしまう。
「……彰ちゃん」
木野宮が一歩前に出る。止めようとした宮山の手をするりと抜けて、木野宮は彰の前に立ち塞がった。視線がぶつかる。まるで自分とは違う瞳に、彰は小さな苛立ちすら覚えた。
「わたしは必ず此処を出るよ。そしたら、また彰ちゃんに会いに来る。呼ばれなくても行くよ」
「……なにそれ、なに考えてるの?」
呆れたように笑いながら、彰は言った。木野宮の目は真剣そのものだ。
「わたしは、お父さんの子どもだけど、お父さんの子どもとしてじゃなくて、わたしとして彰ちゃんに会いに行くよ」
ずっとそうなりたくて、ここに来たから。
その言葉に一番の驚きを見せていたのは、宮山だっただろう。先程から、知らないことやわからないことばかりで頭がパンクしそうになっている。
なにも考えていなかった。なにも考えていないと思っていた。木野宮探偵の娘として扱われ続けてきた木野宮きのみの感情なんて、彼女にそこまでの意志があったなんて、誰が予想できただろうか。
思えば自分もそうなのだ。木野宮探偵の娘として、木野宮きのみと接してきた。それを彼女は、どう思っていたのだろうか。探偵になりたいと、そう言った彼女の心中に、一体どんな想いがあったのだろうか。
「そしたら次はね、負けないよ!チツジョとかセイサイとかよくわかんないけど、でも」
彼女の強い意志は、ずっとずっと、彼女の心の中にあったのだろうか。
「絶対勝ちたいから、負けないよ」
彰が目を見開いた。なにそれ、と小さく呟いた声は、すんなり消えてしまった。
ここで全員捕まえてしまえばいい。今すぐこの細い腕を引いて人質にとってしまえば、後ろの三人もなにもできないだろう。そうすれば、こんなつまらないお遊びはすぐにおしまいだ。
わかっている。わかる。何者にもなれず、何者かになりたい気持ちが。私にもある。なりたい自分に届かない歯痒さが。何をしたいのかもわからず、あちこちを彷徨い歩いてきたから。だから、木野宮が腹立たしいのだ。この少女は、なりたいものを、なるべき道を、間違えずに、自信を持って進んでいるから。
だから面白いのだ。自分と対極の位置にいる、この小さな探偵が。この少女が行くべき場所まで辿り着けた時、きっとそれは自分の希望にも絶望にもなり得るだろう。だから彰は言った。わかった、と。彼女の意志を汲み取ることが、ここであの男に刃向かうことが、それこそが退屈からの脱却になり得ると信じて。
「行っていいよ。勝手にして。……でも約束は守って。次は誰にも邪魔させない。誰の指図でもない、私のところに来て、私と勝負して」
そこできっと、何者かになれると願って。
「絶対、負けないからね」
木野宮は呑気に笑って元気に返事した。宮山の手を掴み、困惑した残りの二人も急いで彰の隣を過ぎ去る。取り残された彰は、今にも崩れそうな天井を見上げた。パラパラと破片が落ちて来ている。きっと下で大暴れしているせいだろう。もしかしたらこの館も、もう使い物にならなくなるかもしれない。
「ま、別にいいけど」
呟いて彰はマントを翻し、姿をくらました。小さな探偵との約束が果たされる日を信じて、不器用にも胸を躍らせる。



***


「やばい!やばいやばいやばい!!!」
「こんなの聞いてない!!こんなの聞いてないんだけど!!!」
大人になってから全力で疾走するのは何回目だろうか。今にももつれそうな脚を全力で動かして、水守は崩れ落ちる館からなんとか抜け出した。彰との悶着があって、すぐのことである。なんだか不穏な音が聞こえるなあ、なんて間抜けな声に返事するよりも早く、急に館が崩れ落ち始めたのだ。とにかく走るしかなかった。四人は全力で走り、転んだ木野宮を引きずりながら走っていた宮山が転んだところを水守と壱川が掴み、引きずりながら走る様はまるでゾンビ映画か何かのようだった。
館から少し離れたところで膝から崩れ落ちる。呼吸に忙しいと言わんばかりに壱川の手を払って、水守は壱川を睨み付けた。
「お、生きてたかお前ら」
「きのみちゃーーん!!」
後ろから聞こえた声に振り向くと、そこにはボロボロになった東雲と明乃がいた。木野宮は喜んで明乃に飛びつきに行く。東雲は同じくボロボロになっている三人を見て馬鹿にするように笑った。
「まだ出てなかったとはな。あとちょっと早くスイッチ押してりゃ全員今頃瓦礫の下だったな」
「やっぱりお前か!!」
水守が東雲に噛み付きに行く。止める体力もないまま、壱川と宮山は地面に座り込んだままだ。
「……そっちはどうだったの」
「まあこんなに派手に崩れるとは思ってなかったが、あんなにしぶとい奴、生きてるに違いないだろうな。お前らの方はどうだったんだよ」
「まあ似たようなもんさ。取り敢えず全員無事だったことを喜ぼうか。……例の女優は?」
「あっちでのびてる。外傷も殆ど……まあ無理矢理連れ出しからかすり傷程度って感じだな。生きてはいるから安心しろ」
そうか、と壱川がようやく肩の力を抜いた。宮山は起きたことの整理を付けているのかなにかブツブツと呟いている。
「悪かったな」
壱川の声に、東雲は何も言わなかった。だが壱川は続ける。
「察してる通り、君と出会ったあの一件……チェス人形の事件もそうだ。俺が盗みに入って、木野宮さんが後から来る予定だった。まさかあの老人があそこまで酷いと知っていたら、行かなかったけどね」
自虐的に笑いながらも、壱川は口を開く。
「罪は罪だ。今更謝って、許されるとも思ってない。でもあの時、君が殺されかけたのを止めるのは木野宮さんに反することだったが、それでも動かずにはいられなかった。それで俺は」
「うるせえな、知らねーよ」
東雲のそれは、攻撃的なものではなかった。わざとらしく、つまらなさそうに。東雲はどうでもいいと呟いて、立ち上がる。
「少なくとも、そんな事とは関係なく俺はアンタに憧れてたよ。でもそれもやめだ。今のアンタは憧れるような存在でもなけりゃ、俺が責め立てるような相手でもない。だから関係ねーし、なんも言わねえし、言わなくていい」
東雲は言ってすぐに明乃を呼んだ。少し遠慮がちに駆けてきた明乃を見て、溜息を吐く。
「まあ、ここで終わりの縁でもなさそうだしな。でも次謝ってみろ、腹立つからぶっ飛ばす」
そして足早に、二人はその場を去った。明乃は相変わらず遠慮がちに東雲の後ろをついて行く。
「宵一さん……私……」
東雲もわかっていた。負けたわけではない。しかし実力が足りなかったが為に相手を逃した。捕まえることも倒すこともかなわなかった。悔しいのも、歯痒いのもわかっている。
「明乃」
「…………はい」
だからこそだ。今は生きている。立って、歩いている。まだ次がある。
「言っただろ、今じゃないだけだ」
「……うん……!」
「帰ったら飯食ってソッコー寝るぞ」
だから、明乃には元気になってもらわないと困るのだ。いつだって元気で、いつだって東雲を振り回す明乃でないと、困るから。
「うん!あのね、来る前にハンバーグ作ったから食べようね!」
そんな言葉に、東雲は珍しく嫌味もなく笑って帰路に着いた。


***


家の近くまで送り届けてもらって、先程までのことが嘘のようになる。本当に現実だったのか、夢でも見ていたんじゃないかと。
宮山は呆然としながら、おなかすいたーと騒ぐ木野宮を見る。視線に気付いて木野宮は、晩御飯は何にする?と楽しそうに問いかけた。
兎にも角にも風呂に入って着替えなければ話は始まらない。こんな汚い格好では店の迷惑になってしまう。思って宮山はすぐに風呂を沸かしたが、風呂が沸くまでの時間をどう過ごせばいいのかわからず、結局呆然とソファに座ったまま一度も動かなかった。
木野宮はいつも通りだ。やはり先程までの話は嘘だったんじゃないかと思う。雑誌を広げて次はここに行きたい!と笑う木野宮に、未だ何も聞けない宮山は己を恥じた。しかし次第に木野宮が静かになる。彼女はじっとこちらを見て、様子を心配しているようだった。
「あのねみやまくん」
彼女の声が、やたら遠い。そんな気がした。
「だまってて、ごめんね。いっぱい、いろんなこと。わたしね、お父さんに負けないくらい有名になって、お父さんに負けないくらいすごい探偵になりたいんだ」
なんかはずかしいなあー!と、木野宮が照れた笑みを見せる。
すごい探偵になりたい。なんて。出会った時と言ってることは変わらない。変わらないのに、変わらないから、宮山はようやく現実を受け止めることができた。きっと先程までの出来事に、嘘なんてこれっぽっちもないのだろう。きっと、木野宮の言葉にも。
「木野宮……」
だから現実に戻ってきた。そうだ、自分は雇われた身だが、それでも彼女をそうする為にここにいるのだ。そうしてやりたいと、確かに今までも思っていた。それがより一層、強い意志となってここに現れる。
やってやろうじゃないか。木野宮の名ではなく、木野宮きのみの名を世界に轟かせてやろう。そんな決意が、彼の心の中に確かに芽生えた。
「うん、なろう。すごい探偵に。頑張ろう」
それだけだ。だが木野宮は心底嬉しそうな顔をして、小躍りしてみせた。
きっと明日から、退屈な日常がしばし続くだろう。それでもこの気持ちだけは、ずっとここにあり続ける。思って宮山は、ようやくいつも通り読みかけの本に手をつけた。



***


すれ違いすぎた。あまりにも。
いや……ていうか恥ずかしい!恥ずかしいな!!その場のノリと勢いで恥ずかしいこと言って恥ずかしいことしたな!!あーやだやだ私もう大人なのに吊り橋効果なんてものに騙されないから!!
「綾ちゃん、声に出てる」
「うへえ!?」
はは、と笑う男の隣で、不愉快極まりないドライブを楽しめずにいる水守は、驚きのあまり奇声を上げて飛び跳ねた。
能天気に笑う男、壱川はいつも通りの安全運転で水守の住むマンションへと向かっている。宮山と木野宮を降ろしてからというもの、車内の空気は一層気まずいものだった。聞きたいことや言いたいことがあるのに、どれも声には出せない。そんな、もどかしいばかりの空間。
「……綾ちゃんはさあ」
「……なによ」
「俺のこと案外好きだよね」
「はあーーー!?」
不愉快を全力で表す声。あまりに大きなその声に、壱川は思わず肩を揺らした。
「今ここでそれ言う!? もっと大事な話いっぱいあるくない!? まずは謝るところからじゃない!? ていうか一連の流れ全部全部全部全部アンタがアタシのこと避けてたから始まったと思うんですけどそれについてはどうお考えですか!?」
「悪かった、悪かったよ、悪かったから胸倉掴まないで、危ないってば」
「大体アタシは全然許してないし!全然納得してないし!知らなかったことだらけで腑に落ちないし!だってあのちっこい探偵とだって聞いた時何にもないって言ってたし!」
口にすると止まらなかった。今まで募りに募っていたこれは怒りではなく―――不安、そう、不安だ。
「急に連絡しないし急に冷たいし急に突き放されたし!いつもなんにも言わないしいつも勝手にどっか行くし!」
嗚呼、泣きそう。思って首を思い切り横に振った。この男の前でなんて、誰が泣いてやるものか。
「全ッ然許してないから!!」
睨み付けた目に、涙が浮かんでたかもしれない。一連の事件は、あまりにも唐突で、水守のキャパを遥かに超えていた。
マンションの駐車場に到着しているにも関わらず、水守はシートベルトすら外さない。壱川はハンドルに顎を乗せて、降り始めた雨が窓を濡らしていくのを見守る。
「……許してくれなくていいよ、全然」
水守は雨女だ。一緒に外にいると、よく雨が降る。出会った日も、今日も、大切な日にはいつも雨を降らした。
「許してくれなくていいけど、まだ綾ちゃんの力が必要なんだ。構わない?」
気に食わない、と言わんばかりに水守は壱川を睨み付けた。しかしそれ以上返す言葉も見当たらず、急いでシートベルトを外す。車のドアに手をかけ、もういいと言いたげに口をつぐんだ。
瞬間、空いた手を壱川が掴んで車に引き戻す。ふざけるなと怒鳴る気力もなかった。
「今外に出たら、濡れちゃうよ」
すれ違いすぎた、あまりにも。
だけどきっとこれからも一緒にいるしかないんだろう。まだお互いに、足りないものが多すぎる。
「飲みに行こう。今日は奢るよ」
それでチャラにしなければ、やっていけないような世界だから。


***


その男の世界は完成していた。この世に生を受けてから、既に完成しきっていた。男にできることは、その均衡を守ることだけだ。だからそれを使命のように、或いは義務のように遂行していく。満足感も充実感もない。それは男をこの世に留めるただひとつのライフワークだ。
だからどうとも思わない。愛おしい半身が命令を裏切ったとて、悲しいとも辛いとも思わない。勿論怒りもなければ、絶望もない。なんせそれは、常盤 社のライフワークのひとつなのだから。
「嗚呼、早く洗わなければ」
汚れた燕尾服を手で払いながら、常盤は相変わらず笑っていた。やはりある程度が予想通りで、ある程度どうにかできそうなことばかり。それを少女はつまらないと言ったが、常盤にはそんな毎日すら愛おしく、しかしどうでもいいことのひとつでしかない。
完成された世界の秩序を守ること。それこそが常盤 社が常盤 社たるたったひとつの事柄。だから別に構わないのだ。これから先、あの怪盗たちが、あの探偵たちが、どんな事を仕掛けてこようとも。これから先、この手で今日まで仲間であった少女に制裁を加えることになろうともーーー
「別に構わないですよ。する事は変わりませんから」
嗚呼、そう、何も。何も今までと変わらない。明日からまた、日常が幕を開け始める。


オペラ座の歌姫失踪事件 伍

何、簡単な話ですよ。
影が笑ったのに対し、嫌な不信感を覚えたのを忘れられない。行き場のない少女は、生きることの目的を見失っていた。常に死んでいるかのようにすら思えた。己の身体に熱を感じず、動きを感じず。それは心にさえ及んで、自分が本当に生きているのか、そうでないのかの判別すらつかなくなっていた。
しかしその時、確かに動き始めたのだ。心臓が、血液が、脳が、心が。目の前の影に対する恐怖や、不安や、警戒や、困惑。
何よりも高揚と、感動で。
「私たちの仲間になってしまえばいい」
皮肉にもこの時、少女は生きることの意味を愉しむことに置いた。
皮肉にもこの時、少女は未だ見ぬ世界があるという、それだけを突き付けられて希望を見た。
皮肉にもこの時、少女は影の手を取った。
「我々の目的はただ一つ――――」
白い燕尾服の"影"は言う。その口から漏れる言葉は、まるで童話でも語っているかのような。
「"秩序"の為に、制裁を」





猫猫事件帖
オペラ座の歌姫失踪事件 五






「そんで、アイツら結局何の為にお前らを呼んだんだ。まあなんだっていいんだが、俺が呼ばれてないのが気に食わねえ」
「呼ばれてない分平和でいいじゃないか。こっちは何の身に覚えもないことで命まで危険に晒されてるんだぞ」
「……そうですね、俺もどうして木野宮と俺が此処にいるのか……」
「みやまくん!この辺に隠し扉がある気がする!!」
「きのみちゃん止まっちゃダメだよう!置いて行かれちゃうよう!」
「全く呑気なもんね、遠足じゃないってのに、なんか気が抜けちゃうわ」
一行は屋敷の中を進んでいた。入ってすぐにある広いホールから、できるだけ固まって一階、二階と慎重に捜索を行っている。
照明もなく薄暗い屋敷の中で、誰もが緊張に息を潜めていた―――はずだった。
まあ、変に疲れるよりいいか。
思いながら宮山は中々進もうとしない木野宮の服を引っ張る。列に戻った木野宮が明乃に手を繋ごうと言われ、嬉しそうに手を繋いだのを見て自分も列の中腹に戻った。
「ケッ、何の身に覚えもないことだあ?お前が一番身に覚えがあるんじゃないのかよ」
「まあ、そうかもな。この中じゃ俺が一番グレーゾーンなんだろう」
言ったのは、壱川だ。怪盗でありながら刑事。双方からして"裏切り者"である彼が件の怪盗団に目を付けられるのは仕方のないことなのかもしれない。言っても、宮山は怪盗である壱川を知らない。胡散臭い男ではあると思うが、実際に悪さをしているところなど想像も付かなかった。節々、彼は人が傷付くことに対して過剰に反応をする。敵であるはずの彰に刃を向けた明乃を止めた時のように。しかしそれは別に、怪盗だけに向いているものではない―――と、宮山は思った。
勿論、そう言わしめるのは彼の相棒である水守の存在が大きい。
彼女が危険に晒されていると知った時、壱川ははらわたが煮えくり返ったとでもいうような形相で彼女の元へ駆けて行った。
彼の真の目的を、宮山は知らない。いや、この場に知っている人間などいるのだろうか。少なくとも怪盗仲間である東雲と、相棒である水守はある程度知っているのだろう。しかし水守は壱川について「私もあまり知らない」と言っていた。
彼が怪盗側の人間で、更に言えば怪盗団側の人間だったらーーー…?
東雲も、怪盗側の人間であるのにどうしてこの場で仲間だと言い切れるだろう。この二人が、味方である保証など何にもないのではないか。
そんな宮山の思考は、木野宮の大声によって遮られた。気が付けば考え事をしている間に、薄暗く長い廊下を歩いていたらしい。振り返れば木野宮はまた列を外れ、壁に顔をぴっとりとくっ付けていた。
「こら、きのちゃん」
「みやまくん!今度こそ隠し扉がある気がする!!」
「わかったから、皆に迷惑かけちゃダメだろ、できるだけ離れないように」
「ほんとにほんとにほんとなんだもん!ここにある!探偵の勘が告げている!!」
「いい加減にしないと明日のおやつは―――…」
ガラッ、ぽんっ。
何とも間抜けな音に全員が一時停止した。列の最後尾より少し向こうにいた木野宮が張り付いていた壁が、突如消えたのである。
「わっ」
「きッ―――!」
支えを失った木野宮の身体は、壁の向こう側へと消えていく。正にその瞬間だった。
「わおーーー!!!」
「木野宮ッ!!?」
「きのみちゃーーん!!」
「こら明乃!俺から離れるな!」
「待て!取り敢えずみんな固まっーーー」
「大丈夫なの!?ちょっと!!」
全員が同時に動き出す。誰かが誰かにぶつかり、更にその前の人にぶつかる。正に人間ドミノ。壁の向こう側を覗こうとしていた宮山は、全員分の体重を背負って暗闇に放り出された。
「おおお……!?」
「ダーーー!!明乃ーーー!!!」
「宵一さーーん!!」
「うわ……!」
「ギャーーーー!!!!」
各々の悲鳴。各々の喚き。虚しく、宮山は落下の後で地面と身体をしっかりぶつけた。
「痛!!」
次いで、東雲を抱きかかえた明乃が綺麗に着地する。
「よいしょ!」
「……冷や汗かいたぜ、おい降ろしていいぞ」
「えー、宵一さん、もしかしてまた軽くなった?帰ったらカロリー高めのおやつ作るね!」
「いいから降ろせ馬鹿!お姫様抱っこ以外にもあっただろこんにゃろ!」
更に次いで、水守を抱き締めたまま華麗に着地ーーーできなかった壱川が地面に腰をぶつけた。
「いたたたた……綾ちゃん、怪我は?」
「…ない」
「そう」
ぺしゃんこになりかけている宮山が顔を上げる。けろっとした顔で立っている木野宮を見て、なんとなく虚しくなった。
「ほら!みやまくん!私の言った通りでしょ!!すごいでしょ!!」
「はいはい、すごいよ。疑って悪かった……」
よしよし。頭のリボンの抑えつける。なんだかこのリボンも今日は大人しいように思うが気のせいだろうか。
「さて、地下に降りて来たんだろうけど」
立ち上がった壱川がコートの埃を払いながらあたりを見渡した。真っ暗な空間は、ある程度広いということ以外何も伝えてこない。急に、悪寒がした。どのくらい落ちていたのか、此処は一体何処なのか。得体の知れない何かに巻き込まれることを予想して、宮山は木野宮の腕を引き寄せる。
そして誰よりも早く、足を踏み出そうとした瞬間、ふと声が己の耳に吸い込まれた。
「……誰かいるの?」
か弱い声。女性の声だ。怯えるような、悲しむような。今にも消え入りそうなそんな声に、一同が制止する。
罠かも知れない。
考えていることは一緒だった。警戒態勢に入った東雲は明乃に指示を出そうと隣を見る。が、とうの明乃は警戒すらしていない様子だ。この場の誰よりも敏感であるはずの明乃が、である。どうした。東雲が聞こうとした声は、更に別の声に掻き消された。
「あーーー!!!女優さんの声だよみやまくん!!!」
「何……?」
木野宮が、声のする方を指差してそう叫んだ。明乃が追って声を上げる。
「あ、やっぱりそうだよね?あの、大丈夫ですかーー!?」
「その声……あの時の探偵さん……?」
女の声が段々と明るくなっていく。一体、何に怯えていたというのか。宮山の警戒心は膨れ上がる。
「よかった!よかった……!助けに来てくれたのね……!お願いこっちに来て、鎖に繋がれてて動けないの……!!私を助けて!!」
必死に縋るような声。宮山はその空気に異常さすら覚えた。
これは餌だ。
あの女優は。だが何故あの女優が?
「早くしないと"彼"に―――!!!」
何故、あの女優ではなければいけないのか。
何故怪盗団は彼女を殺そうとした。何故怪盗団は人質として、態々彼女を選んだのか。
此処にこのメンバーを誘き寄せる為なら、木野宮本人を捕まえた方がよっぽど楽だろう。小柄だし、馬鹿だし、学校にも真面目に通っていないし、馬鹿だし、あと馬鹿だ。宮山はいち早く木野宮の失踪に気付きそれを追い掛けるし、残りのメンバーもそれを受ければ集まった筈だ。
怪盗団には、確固たる目的として女優を殺さなければいけない何かがあったとしたら、それは何だ。
怪盗団の目的は―――……
「助けじゃないよ。貴女にはこれから少し道具になってもらうだけ」
カッ、と。熱く感じる程の光が部屋の真ん中に放たれた。白い光に炙り出されたのは、間違いなくあの舞台に出ていた女優だ。
「ちょっとした判断を下す為の材料……どっちにしたって助かりはしないけど」
そしてその奥に、佇む少女がひとり。
「黒堂……彰」
「こんにちは、探偵さん、怪盗さん。それじゃあやっと、答えあわせを始めよう」
女優は声も出ないのか、彰の姿を見て震えるばかりだ。
明乃が臨戦態勢に入る。東雲もその隣で周りを警戒している。
「まずはそうだなあ、どうして狙われてるかわかる? はい、そこのキミ」
彰が悪戯に指をさしたのは、水守だった。水守は呆気にとられたような顔をするが、すぐに彰を睨み付ける。
「どうしたの? こんな簡単なこともわからないのかな。それじゃやっぱり探偵"もどき"だね」
「はあ!? さっきから言わせておけばガキンチョの癖に―――」
「綾ちゃん」
水守の肩に、大きな手が乗った。勿論、壱川の手だ。わからないわけじゃない。わからないわけがなかった。何故なら水守も、間違いなく当事者であるから。
しかし口に出すのを躊躇う。言わなければ話は前へ進まないのだろう。しかしそれでも水守は唇を噛んだ。とんとん、と大きな手が肩を叩く。子供をあやすような、そんな手付きだ。言っていいよ、と。そう言われている気がした。
「……アタシが、こいつに加担してるから。こいつは刑事で怪盗で……そんな奴に手を貸してるから、同罪だって言いたいんでしょ」
それは壱川を責める言葉にもなり得た。壱川の行為は、怪盗を裏切っていると言われても仕方のないことだ。なんせこの男は、怪盗でありながら刑事として働いている。いつ怪盗を差し出してもおかしくはない、と誰もが危険視するだろう。事実、壱川は己の正義に則って怪盗を裁いている。
そしてそれに手を貸しているのは、水守だ。怪盗にとってはこの上なく目障りだろう。これは水守が承諾したことだ。それでも、壱川を責める言葉には違いない。壱川が、自分で自分を責めているように。
「ぴんぽんぴんぽーん、正解。正直一般人の時点でグレーゾーンなんだけど、目障りには変わりないんだよねえ。じゃあ次いってみよう」
少女は愉しそうだった。人を自分のルールで悪だと決めつけ、正義を執行するのは気持ちがいいのだろうか。それとも―――
「じゃあ今度はキミ」
指は、壱川の方へ向いていた。
「さあ、答えて。キミは何をシタの?」
「はあ? そんなの今言ったのと同じじゃない、こいつは刑事で怪盗で―――」
「貴女には聞いてないよ。答えは彼の口から聞くべきでしょ?」
何を、と。
その場の誰もが……いや、ひとり以外全員が呆気に取られていた。
刑事で怪盗。その立場である事以外に、壱川に何があるというのか。皆が壱川を見ている。不安そうに。知りたそうに。渇望するかのように。
誰よりも水守が、壱川を不安そうな瞳に映している。
「それは」
何もないと言ってくれ。そう言いたげな視線に、壱川は怯んだ。
「それは……………………」
怯んだ隙を、突かれた。
「お父さんが嘘吐きだから」
言ったのは、壱川ではない。
不安そうな水守でも、見守っている東雲でも、おろおろとしている明乃でもない。面を食らっている、宮山でもない。
「お父さんが、嘘吐きだから」
満足そうに笑みを零す、彰でもない。
「…………正解、大正解」
言ったのは、小さな探偵だった。
ただひとり此処で、静かに話を聞いていた木野宮だった。
木野宮と彰の視線がぶつかる。壱川が驚いたように目を見開いて、彼女を見ている。
一体、どうなっている。
宮山は、何も口から出ない代わりに手を伸ばした。木野宮の肩に、その手を乗せようと。
しかしそれさえ出来ずにいる。何も知らない筈の少女が、逞しくも目前の怪盗と視線をぶつからせているからだ。
「木野宮……?」
その声に、木野宮は振り返った。呆然としている宮山を見て、いつも通りの笑顔を見せた。
「お父さんはね、全然すごい探偵なんかじゃなかったんだ。正真正銘の、嘘吐きだった」
「何を」
「そう……その子の父親、優秀で敏腕な探偵…怪盗の目の敵……そんな風に言われていた彼は、実はダメダメだったってワケ」
彰が一歩、木野宮に近付いた。また一歩、また一歩。
「その裏で、彼はとある怪盗と組んでいた。その怪盗と組む事で幾多もの同志を捕まえ、牢屋にぶち込んで……自分は有名になって富と栄誉を得た。……なんて酷い話だよね~」
「…………」
「そりゃ勿論その娘を目の敵にもするし、手を貸していた怪盗にも制裁を下す事になるよね? 当たり前だよね」
ね、と。
彰が木野宮の目の前まで来た。木野宮は、真剣な目付きで彼女を見ている。
「……本当なのか」
宮山は、震える唇で聞いた。
あの、木野宮探偵が?そんなまさか。彼は探偵皆が目指す目標だった。当時新聞で彼の名を見ない日などなかった。少なくとも宮山は、そんな彼に憧れていた。そんな彼の娘である木野宮 きのみの面倒を見ることを、誇りに思っていたのに。
「うん、本当」
目眩が、した。
「……そう、私達の目的は、怪盗の秩序を守ること。私、本当はそんなのどうだっていーんだけど。全てはそれに繋がること。……そこの女優さんだってそうだよ~? 私達を裏切ろうとしたから、こうやって制裁を受ける事になったんだもん」
「……ち、ちがう!!裏切ろうとなんてしてない!!誤解だわ!!誤解なのに!!」
「おや」
不穏。
それは、不穏と言わざるを得ない風。
そこにいた全員が、誰よりも女優がその声に真っ青になった。
コツコツと、ゆっくり床を踏む音。同時に影は、己の真っ白な姿を皆の瞳に映し上げた。
「それでは、舞台が終わる日付と同じ日のフライトチケット……偽造パスポートに偽造の通帳まで…まるで私には海外に逃げる手筈のように思えて仕方がなかったのですが、勘違いだったのですね」
その影、常盤 社。柔和な笑みが生んだとは思えない風を部屋に巻き起こし、嵐を告げる影。
「違う……違うのよ……」
「貴女のマネージャーが、吐いてくれましたよ。短剣を持って逃亡し、足を洗うつもりだったと……」
「何…………彼に何を…………!!」
「悲しい話だ。貴女もまた、あの短剣に魅入られたのですか?」
まるで、テレビを観ているような気分になった。
起こっていることが、事実が頭で呑み込めない。宮山 紅葉は、続く目眩に倒れそうになっていた。
「さて、貴女の処分は考えてあります。もう少し付き合ってもらいましょうか」
その敵、常盤 社。
視線に氷漬けにされてしまったかのようにさえ感じる。宮山は動かぬ己の身体を呪った。
だが、常盤の視線は宮山に向いているわけではない。影が見ているのは、たった一人。そこに立つ、たった一人の男である。
「壱川刑事。貴方もまた、怪盗の秩序の為に闘っている身なのでしょう。形は違えど、その志は美しい」
「…………そりゃどうも。だが裁くんだろう。アンタらの言う正義と秩序で」
「貴方と我々ではやり方が違う。そのやり方が問題なんです。貴方が刑事である以上、我々も安心して生活できませんし」
「よく言うよ、堂々と顔まで見せて…俺には捕まらない自信があると言っているように見える」
「……それはさておき」
常盤が燕尾服の内側に手を差し込んだ。明乃が反応するが、東雲が止める。
「目的は同じ同志。加えて貴方は実に優秀だ。……つまりは、スカウトですよ。私達と同じところに来るのなら、貴方を裁くことはできない。勿論、貴方のお仲間も」
それはどうだか。強がりの笑みに呼応して、常盤は笑う。
「この女は、悲劇の短剣を盗み、その後で国外逃亡を図る予定でした。それだけじゃない。仲間の情報を警察に渡すつもりでいた。何処から盗んだのやら、リストが部屋から出てきましたよ」
常盤が懐から出したのは、短剣だった。
そう、悲劇の短剣。ヒトに曰くを付けられた、あの短剣が。
「どころか……仲間を一人殺している。怪盗団の内の一人をね。見つからないようにしたつもりでしょうが……」
「そんな事してない!!」
「証拠もありますよ。どうせ、貴女の逃亡計画を知られて揉め事になったなんてオチでしょう。私を欺きたいのなら、もっと上手くやることです」
彰が壁に身を預けて、つまらなさそうにこちらを見ている。その隙を見て、東雲は部屋を見渡した。
「……それと俺に、何の関係が?」
「試験ですよ」
悲劇の短剣が、指で弾かれて宙を舞う。難なくそれを掴んだ壱川が、己の手で煌めくそれを見た。
「貴方にとっても、この女は貴方の正義に則っていない筈だ。……その剣でこの女を刺し貫いたなら、見事貴方は私たちの仲間入り。其方の方々も見逃すことにしましょう」
「…………」
「これからはもっとやり易くなりますよ。貴方のサポートもバッチリ致しますから。結局目的は同じなんです、悪い話ではないでしょう」
計算、計算、計算。
壱川の脳は既に計算を始めていた。この屋敷から全員が無事で出られる確率を。最低限の犠牲で他の連中を逃す算段を。己の正義と、仲間の安全。何を天秤にかけるべきなのか、どちらの方が重いのか。もっといい方法はないのか。
果たしてあの女を貫けば、自分は許されるのだろうか。
「さあどうぞ、ご決断を」
壱川は、思い出していた。
昔、木野宮という男がいた。彼は大学の教授の知り合いで、時折構内で見かけてはミステリー小説の話をした。
壱川が、怪盗に成り立ての頃の話だ。彼はそれを知って、壱川にある話を持ちかけた。
木野宮が手柄を立てられるように壱川が怪盗として手引きをする。報酬の分け前も勿論ある。木野宮は歳の若い壱川に頭を下げた。壱川はその話を、承諾した。承諾したのは金欲しさではない。そんなもの、怪盗業に片足を突っ込んだ時点で必要はなかった。
理由はただひとつ。
木野宮を愛し、木野宮によく引っ付いて回っていた小さな少女。
少女に、夢を見せてやりたいのだと。
木野宮はそう言ったのだ。
「…………俺は」
たったそれだけだった。悲痛な声にも聞こえた。少女が父親の話をする時の顔を思い出して、壱川もその気持ちに同調した。
それが行き過ぎた。木野宮は予想より名を挙げ、怪盗に目を付けられるようになり、早期の引退を余儀無くされた。
それでも少女の夢は守れたのだと思っていた。
ほんの軽い気持ちで始めた協定だった。それがひとりの少女の夢を守れるならそれも悪くないと思っていただけだ。だが、それが間違いだと漸く気付き、壱川が木野宮と手を切った頃から、ずっと引っかかっている。
それでも間違えてきた道を、自分はどうやって捩じ伏せてきただろう。今していることがその罪の償いだというのなら、本当にそれは意味を成しているだろうか。
してしまった事に変わりはない。同業者を売った。その所為で怪我を負った者もいる。
その償いなど、できるだろうか。ましてや少女の夢を守れていなかったと知った今、自分を守るものは何もなくなってしまった。
正論で、人は潰れる。
今になって壱川は、己を守る為の言い訳を、すべて失っている。
秩序を守る。それは、自分の間違いを償う為に、自分を守る為にしていることなのではないか。間接的に仲間を傷付け続けていた自分を、許したいが為に。
どうすればいい。どうにもならないことを。
手の中の短剣は、それでも煌めいていた。女優の恐怖を彩るように、散りばめられた宝石がライトに照らされている。
呆然と、それを見ているだけ。
「さあ」
声に、押し潰されそうになる。せめて自分ができること。来た道が崩れていく恐怖。
どうせ同じじゃないか。自分がしていたことは、目の前の影がしている事と。償いきれないのなら、せめて今此奴らを守った方が名誉なのではないか。
どうせもう、何もないのだから。
何にもなくなったのだからと、そう思ったその時。
手の中の輝きは、急に失われた。
「……………綾ちゃん?」
短剣は輝かなくなった。その剣の上から、誰かが蓋をしているのだ。細い手が、それでも頼りになるその手が、短剣の煌めきを隠すように。壱川の手ごと、包み込んで。
「…何迷ってんのよ、遵」
目眩が治った。鮮明になる視界に、震える水守の姿が映る。
「…………迷う必要なんかない。それじゃアンタが今までしてきたことは、全部なくなっちゃうじゃない。そんなの認めない。だってそれは、アタシが頑張ってきたことでもあるから」
「…………りょ」
「絶対認めない!ボサッとしてんな!!」
「えっちょっ何」
バキッ。嫌な音。良い音でもある。壱川は飛んだ。軽く吹っ飛んだ。同じく短剣も宙を舞い、地面に突き刺さる。呆気にとられた全員が、目をパチクリとさせてそれを見ていた。
「いっ……」
壱川が起き上がる。相当強く打たれたらしい。その頬は真っ赤に腫れ上がっていた。
「痛いなあ!? 今の本気だっただろ!?」
「本気も本気に決まってんでしょ!?アンタが遅いからみんな待ってて話進まないのよさっさとしなさいよ!!」
「だからって……口の中切れちゃったしシャレにならないくらい痛いよ!?」
「いいからさっさとするの!!いつもみたいに強がりでいいからなんとか言ってみなさいよ!!」
壱川は、思い出していた。
酷い雨が続く日に、駆け出しの怪盗と出会った夜。彼が殺されかけているのを見た。それも、壱川が一枚噛んでいた事件の話だ。だから卒なく動き回ることができた。
急に身体中に熱が駆け巡ったのを思い出す。何が自分を突き動かしたのかもわからないまま、気付けば壱川は駆け出しの怪盗の隣に立っていた。
守れるものは守りたいと、そう思ったのだ。
それは己で決めるべきだと。誰かに決められるべきでもない。誰かの為ではなく、自分の為に。
「アンタの相棒はアタシでしょ。ほら」
水守が差し出した手を見る。なんて単純なことだったのかと呆気に取られる。
嗚呼そうだ、今守りたいのは秩序なんてものだけじゃない。それはただの、手段のひとつに過ぎなかった。
「…………そうだな」
手を取る。確かに取った。自分の手で。
「……その通りだ。悪いが絶対にごめんだよ。誰かが傷付くのも、傷付けるのもこりごりだ」
今度は間違えないように。
「俺は俺のやり方でやる。悪いがもう相棒の枠は埋まっていてね」
「……残念です」
影が動く。
「それじゃあ此処にいる全員を、なんとかしなくちゃいけない」
「―――お前ら目閉じろ!!!」
声。爆発音。殆ど同時だったが、それでも全員がなんとか一歩退いて煙幕から逃れられた。叫んだのは東雲だ。一体何をと誰かが言い出す前に明乃が前へ出る。
「東雲君!」
「奥に扉があった!俺と明乃が残るからお前らは走って行け!」
「ダメだ、俺も残る!綾ちゃん、悪いけど木野宮さんと……」
「うるせえ!!」
東雲宵一は、燻っていた。いつまで黙ってりゃいいんだこれ。話なげーな。……そう思い始めてから、相当な時間が経っている。
「こちとらウズウズして堪んねえんだよ、邪魔すんな。つか足手纏いなんだよ!いいからさっさと行け!お前がなんとかしろ!わかったな!!」
壱川を力強く指差して、東雲は言った。ぽかんとしながらその指先を見ていた壱川が、水守の肩を掴む。今度は迷いのない瞳で、東雲を見た。今此処にいる彼は、間違っても駆け出しの怪盗なんかじゃない。
「……すまない、頼んだ」
「おう、任せとけ」
「行こう綾ちゃん。宮山さんに、木野宮さんも。さあ」
言って、壱川たちが煙幕の中へ消える。殆ど同時に、何かに弾かれ明乃が東雲の前へ戻って来た。
「……明乃、行けるか」
「うん、宵一さん、勿論だよ」
「よし……そんじゃあやっと出番だぜ」
その目は誰よりも爛々と輝いている。今から此処は、彼らだけの舞台になる。
「……困った人達だ」
影は、笑っていた。愉しんでいるのか、怒っているのか。真意が図れずとも、それは不穏でしかない笑みである。
「行こうぜ明乃、此処をお前用の最高の舞台にしてやる!」
「うん!頑張っちゃうよ~!」





続く!

オペラ座の歌姫失踪事件 四

仰々しい雰囲気に押し負けそうになったのは、何も宮山 紅葉だけではない。その場にいた全員が一度口を閉じて、目の前にそびえ立つ建物を凝視していた。
都内某所、元いた場所から車で数十分は走っただろうか。車内の重々しい空気など気にもとめず鼻歌を歌っていた木野宮 きのみの横で、宮山は胃袋を痛めていた。重々しい空気を作っていたのは、他でもない、残りの二人だ。水守綾と、その相棒壱川遵。彼女たちの間で、車に乗る前どんな会話が繰り広げられていたのか宮山は知る由もないが。それでも何か良くない空気で言い争っていたことだけは知っている。お陰様で、車内の空気は最悪だった。故に、車が止まった時の安心感は凄かった。嗚呼、漸く外の空気を吸える。意気揚々と扉を開けて、今に至る。
悲しいかな。外の空気さえ、重々しい。宮山は落胆を隠しきれず、肩を落とした。隣に立つ木野宮はぽかんと口を開け、残る二人は深刻そうな顔をしている。
さあ、何処から語ろうか。いや、今からが真に語るべき事なのか。
正に今、此処から始まろうとしているのだ。今までのことなど、すべて前座に過ぎないのだろう。これまで築いたものなど、どうしようもなくくだらない事だったのだろう。怪盗と探偵。ふたつの生き物が対立する物語の、今まで何を語ってこれただろう。
否、何も。
これから漸く始まるのは、遂に待ち望んでいた対決である。一筋縄では行かず、決して楽しくもない。此処にあるのはただ、混沌と、互いの正義のみ。
宮山 紅葉は、それでも己の高鳴る鼓動を隠せずにいた。





猫猫事件帖
オペラ座の歌姫消失事件 四





「……行きましょうか」
屋敷。と、言われて皆はどんな建物を想像するだろうか。少なくとも宮山が思う屋敷は、今正に目の前に建っている家の事である。
宮山も一応、木野宮家が所持している屋敷に住んでいるのだが、それとはまた雰囲気が全然違う。元は華やかであっただろうその建物は、寂しくも荒れ果て、木の根に覆われ、廃墟と呼ぶに相応しいものになっていた。
いや、実際廃墟なのかもしれない。
木野宮がスキップする幅に合わせて歩けば、どんどんとその屋敷の全貌が明らかになってくる。見れば見るほど仰々しく、不気味だ。
この屋敷に来たのは、何も遊びに来たわけではない。紛れもなく、怪盗と邂逅を果たす為であった。
もう、何日も経ったかのように思える。とある人物が木野宮探偵事務所に依頼に来た。先日、木野宮とその友人の怪盗が命を助けた女優が行方不明だから、捜して欲しい、と。
同じくその一件の依頼をされていた同業者、水守と二人は行動を共にしていた。怪しいとご近所さんに噂されていた女優のストーカーの家を突き止め、一行はその家を調べる事にした。途中、刑事である壱川が参入し、なんとかストーカーの確保に至った。
しかしこのストーカー、単なるストーカーではなかった。「とある人物」が、我々を呼んでいると言うのである。勿論、我々には木野宮と宮山も含まれていた。一体どうして?宮山は首を傾げざるを得ない。「とある人物」が誰なのか、大体の見当はついている。件の怪盗団だ。そしてその怪盗団に壱川と水守が狙われているのは理解できる。壱川は、刑事でありながら怪盗とも縁があるらしい。聞けば怪盗団なる連中の目的は、怪盗の秩序を守る―――つまりは、怪盗業界における暗黙の了解を守らなかった者や、裏切った者に制裁を加える、というものだった。
だからその二人なら説明が付くのだ。刑事でありながら怪盗に肩を入れる壱川と、その助けをしている水守。詳しいことは知らないが、それらが怪盗団の琴線に触れたとしてもおかしくはない。
だが何故、木野宮と宮山にまで、そんな回りくどい事をして依頼を寄越したと言うのか。少なくとも宮山は、つい最近まで怪盗という生き物との縁が全くなかった。東雲 宵一や明乃という怪盗の知り合いはいるものの、関わりなど殆どない。偶然居合せるレベルでしか会話もした事がない。木野宮はと言えば確かに明乃と仲が良いが、そんなの友達同士で遊びに行くレベルでしかないし、本人たちもそのつもりだろう。そこまで制裁を加えなければならないというのなら、怪盗にとって普通の生活など許されていないも同然だ。
一体、何故なのか。
宮山はふと思い出していた。それはとある日曜日。木野宮がどうしても行きたいとせがんだのをきっかけに、人気のパワースポットとなった教会に出向いた日の事だ。あの日、教会の目玉であるステンドグラスは無残に割られ、怪盗の手によって持ち去られた。あれが宮山と怪盗の、初めての邂逅である。
その時、件の怪盗―――黒堂 彰は木野宮に向かって言った。
『君のお父さんはダメダメだけど……君はもっとダメ!』
木野宮が険しい顔をしていたのを覚えている。しかし、宮山にとって名探偵と名を馳せていた木野宮の父は、女子高生に「ダメダメ」なんて言われるような存在ではなかった。
ずっと、疑問に思っていた。ずっと、引っかかっていたのだ。
どうして怪盗が木野宮の父を、木野宮を気にかける必要がある。目の敵にするのはわかるが、あれにはそれ以外の何かを感じた。そこに何かあるとして、それを木野宮は知っているのか否か。
探るように木野宮を見る。丁度木の枝に引っかかって転びかけているところで、宮山はその腕を掴んでそれを阻止した。
考えても、しょうがない。その答え合わせの為に、今日は此処に来たようなものだ。
木野宮の父と約束をした。危なっかしい娘を守ってくれと言われて、はいと返事をしたのだ。まだ未熟な娘に跡を継がせる為、彼は態々宮山という男を木野宮の側に置かせるように仕向けた。それも仕事のうちだ。
だが、それ以上に宮山にとって、木野宮は家族も同然の存在である。寝食を共にし、共に事件に挑む。娘とも妹とも、友人とも違う。恋人でもない。そう、この少女は自分の相棒なのだ。だから何があっても守らなければいけない。約束を果たすのも、当然の事だが。
考えていると、先頭を歩いていた壱川の足が止まった。しかし木野宮の足は止まらない。おどろおどろしい屋敷の玄関を前にして、木野宮は大声を上げた。
「たのもーーーう!!!!」
返事はない。壱川は慎重に周りを見渡す。水守も同じく、周囲を探っているようだ。宮山は木野宮の近くに寄ろうと、一歩、足を動かす。
「みやまくん、誰もいないみたい」
「そんなわけないよ。なんせ、呼ばれて来たんだから」
「勝手に入ってもいいんじゃないの?」
水守が扉に手をかける。しかし壱川がそれを制止した。
「何があるかわからない。相手の目的もわからないんだ、もう少し慎重に」
言った言葉に、水守は少しムッとしたようだった。あわわ、と口に出しながら木野宮がその真ん中で困っている。宮山はもう一度肩を落として、自分が扉を開けようと心に決めた。
そしてもう一歩、踏み出した瞬間だった。
その瞬間は、壱川がもう一度屋敷の周囲を見ようと少し離れようとした瞬間で。
その瞬間は、水守が態とらしく壱川から遠ざかろうと退いた瞬間で。
その瞬間は、木野宮が宮山に駆け寄って何か喚こうとした瞬間で。
その瞬間は。怪盗―――黒堂 彰が木野宮を連れ去ろうとした瞬間だった。
「―――木野宮!!」
叫ぶより早く、真白なマントが木野宮を包む。何処からともなく降って来た少女は不敵な笑みのままに木野宮を呑み込んだ。自分が何を考えているか訳もわからず、宮山は次の一歩を大きく踏み出した。壱川が懐から何かを出そうとしている。水守が何かを叫ぼうとしている。その全てがスローモーションに見えて、彰の笑みさえマントに消えていくのをゆっくりと見送る。
間に合わない。
ふと冷静な自分がそう判断した。身体はそれとは対極にがむしゃらに動いていた。それでなくとも魔術のように出たり消えたりするような奴らだ。脳味噌で考える以外何もない自分に、それを遮れる筈がない。
唇を噛む。同時に痛みが走った。唇にではない。耳を、何かが掠めた。ほんの少し熱を帯びる。風を切る音が聞こえる。宮山は確かに見た。雲のように、蝶のように、はたまた海のように広がる白いマントに、ナイフが突き刺さるのを。
「木野宮!!」
もう一度叫ぶ。マントはナイフを弾く事なく受け入れ、しかしマントの持ち主はナイフを避ける為に大きく跳躍した。解放された木野宮がぽかんとその場に立っている。無事で良かった。安堵と同時に、今度はナイフが飛んで来た方向に振り返る。
「……だーから警戒しろっつったのによ」
それは呆れたような、嘲笑うような。
木野宮の表情がわかりやすく明るくなっていくと同時に、宮山もその人物が誰なのか理解する。
邪魔をされた彰も又、目を細めてわかりやすく不機嫌を見せた。
「オメェら馬鹿だろ。来てみれば初っ端からこれかよ」
「きのみちゃん大丈夫!? 何もされてない!?」
「明乃ちゃーーーーん!!!」
そこにいたのは、件の怪盗。東雲 宵一。その助手、明乃。臨戦態勢とは思えない気軽な態度で、二人はそこに佇んでいた。
「アンタ達なんで……」
「そりゃお前、例の怪盗団が関係してるかもしれねーって事件に関わってますって態々懇切丁寧にお前が教えてくれたんだろうがよ」
「はあ?だから何――――」
「ここ」
言って東雲が、自分の首元をとんとんと指で叩いた。首を傾げながら、水守は自分の首元を触る。白いシャツの襟の下に、何か硬いものがある。指先がそれをなぞり、摘んだ。
「何これ……ってギャーーー!!虫!!」
「失礼だな!それはドコデモオシエル君十二号だ!!」
「ドコデモオシエル君……って発信機!?何してくれてんのよ訴えるわよ!!」
「テメーの仲間助けてやったのになンだその態度はァ!それがなかったらそいつ連れて行かれてたんだからな!もっと様子見るつもりだったのによお!」
「明乃ちゃーーーーん!!!ありがとう!!こわかったよう!!」
「きのみちゃーーん!!!ほんとによかったよう!!私もこわかったよう!!」
「…………」
「………………」
騒ぐ人たちを残して、呆気にとられる男二人が目を合わせた。宮山はすかさず明乃に抱き着く木野宮を引っぺがし、壱川は争う二人の間に入る。
「センセ、ほんとになんにもされてない?」
「うん!平気だよ」
「そう……」
漸く胸をなで下ろす。宮山は木野宮の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「ほら二人共、無駄な言い争いは帰ってからにしてくれ」
「でも……」
「無事に帰れたらね」
何か文句を言いかけた水守を遮って、冷酷な声が響いた。他の誰でもない、彰の声だ。全員がそちらを向く。彼女は自分の口元をマントで隠しているものの、その目から抑えきれない不機嫌さを放っていた。
「…………これじゃ分が悪いから、中で待っててあげる。つまんないから、早く来てね」
「あ、おい!」
東雲の制止の声も聞かず、彰は溜息と共に消えた。そこいらに落ちている枯れた葉が舞い上がり、それが落ち着くと何もなかったかのように空気が元に戻る。同時に、ガチャリと扉から音が聞こえた。鍵が開いたのだろう。
全員が顔を見合わせる。神妙な顔だ。だが、そこに迷いを持つ者は一人もいなかった。
「……入ろうか」
壱川が、何かを食いしばるような声を上げる。
「……そうね」
水守が、それに呼応するかのように声を上げる。
「明乃、行くぞ」
東雲が、しっかりと前を向いて声を上げる。
「うん、宵一さん」
明乃が、己の正義を灯して声を上げる。
「みやまくん、行こう」
木野宮が、頷きながら真剣に声を上げる。
「……そうだな」
そして宮山が。
「行こう」
宮山が、声を上げる。
全員が、扉の前に揃った。

さあ、何処から語ろうか。いや、今からが真に語るべき事なのか。
正に今、此処から始まろうとしているのだ。今までのことなど、すべて前座に過ぎないのだろう。これまで築いたものなど、どうしようもなくくだらない事だったのだろう。怪盗と探偵。ふたつの生き物が対立する物語の、今まで何を語ってこれただろう。
否、何も。
これから漸く始まるのは、遂に待ち望んでいた対決である。一筋縄では行かず、決して楽しくもない。此処にあるのはただ、混沌と、互いの正義のみ。

オペラ座の歌姫失踪事件 参

さあ、どうしたもんか。
宮山紅葉は腕を組んで考えていた。彼はミステリー小説を好むが、特にミステリー小説というだけで、コンテンツの形には拘らない。サスペンス映画も好きだし、時折漫画も嗜む。今の状況的には、どちらかと言えばミステリー小説よりもサスペンス映画の方がしっくり来た。
信用ならない男―――壱川遵が現れたのは数分前のことである。いや、もっと前から話そうか。とある失踪人を追っていた我々探偵と、同業者である水守綾は、失踪人がストーカー被害に遭っていたことに辿り着いた。ストーカーの家を突き止めるまでに時間はかからなかったが、そこから先水守は一人で家の中を見て回ると言ったのだ。勿論不安はあったが、都合もよかった。なんせうちの我儘娘は、絶対的にみやまくんと一緒がいい!と暴れ回るからだ。それがジェットコースターでも、映画館でも、はたまた学校の席替えだったとしても騒ぐだろう。我儘娘―――木野宮きのみにとって大切なのは何を行うかではなく、誰と一緒にいるか、それだけだ。
兎に角、水守を送り出して数分が経過した頃だった。予想していたよりも遅い。宮山は家に入るべきか、見張っておくべきか迷っていた。木野宮を此処で一人見張らせておくのも、ましてや中に入らせるのも危険だ。というか、どんなに此処にいろよと言ったところで近くに蝶々でも飛ぼうもんなら迷わずそちらに向かっていって、結局迷子になるだろう。だから迷っていた。どうしようか。その一言が無意識に声に出ていたらしい、男は「何が?」と背後から話しかけて来た。
「……壱川さん」
「やあ、こんにちは。また会うとは奇遇だな。一体ここで何を?」
「ご想像にお任せします、と言いたいところなんですけどね」
宮山はこれまでのことを話した。伺うまでもなく険しい顔をしていたのは一生忘れられないだろう。なんなら、今夜は悪夢を見るかもしれない。いつもにこやかな人というのは、怒ると怖いのだ。
壱川は話を聞いて、家の中に飛び込んでいった。それも正面の入り口から。いやいや、刑事の特権にしたってもう少し慎重に行かないと……なんて茶化す暇もなく、時間だけが過ぎていく。
「ちょうちょ!」
声が響くと同時に小さな探偵の襟を掴む。予想通り、木野宮は今にも走り出す体制をとっていたのか首が詰まったらしく、ぐえ、と蛙のような声を上げた。
これがアメリカのサスペンス映画なら、今頃あの家の中でラブロマンスが繰り広げられる直前くらいなもんだろう。しかしまあ、そんなことになってくれるならそっちの方が全然いい。なんだか今は、嫌な予感がしているから。





猫猫事件帖
オペラ座の歌姫失踪事件 参






場が、緊張に支配されていた。
肌がピリピリ痛むのは、鋭い空気感に裂かれているからだろうか。水守は未だ壱川に抱き上げられたままだが、遂に文句を言うこともできなくなった。ここまで直接的な殺気を感じたのは初めてだ。まあ、普通の人なら感じる事の方が珍しいだろう。
それは異様だった。「この男は殺すつもりだ」と、何故か確信が持てる。そんな空気だった。
壱川の手が肌に食い込んで痛い。何かに耐えているような、そんな手が。嗚呼、腹が立つ。なのに声が出ない。なんて情けない。水守はありとあらゆる罵詈雑言を自分に浴びせた後、もう一度壱川を睨み上げた。
それに気付いたのか、壱川がそっと水守を床に降ろす。相変わらず空気が鋭いままだが、水守は敢えて壱川の隣に立った。足がまだ痛む。しかし此処でこの男の背に隠れることだけはしたくなかった。少なくとも水守が望む壱川との関係は、そういうことだからだ。
「綾」
壱川もそれを知っていた。水守綾という人間の在り方と、そして何よりも壱川に向けられる真摯過ぎる姿勢を。それが嬉しかった。変に遠ざけもせず、近すぎもしない。対等な関係性というのを築くことがどれだけ難しいことかよく知っている。それでも水守は常にそれを守った。そんな彼女だからこそ、相棒としてやってこれたのだろう。
しかしそれは甘えでもあった。
対等にいたいと思うのは、何も水守だけではない。彼女の真摯な姿勢に応えたかった。彼女と対等でいることで、そこに己の居場所すら見出していた。これから先何があってもそうありたいと思っていた。いつだって境界線を引くのは自分であることを知っていた。だからこそ水守の気持ちに応えたいと感じた時、己に対する強い不信感と、彼女に対する安堵が芽生えたのだろう。
これではいけない、と。甘えていたのだと自覚したのが遅過ぎた。此処まで来ては、もう彼女は引かないだろう。だが対等な関係ではいけない。最早彼女を巻き込んでいいところをとうに超えていた。だから壱川は、敢えて言った。いつもなら、辛いなら下がっていいんだよ、なんて茶化す言葉で彼女を怒らせていただろうに。
「下がってくれ」
命令のようにも聞こえた。邪魔だと言わんばかりの声色だった。その時水守がどんな顔をしているかなんて、もう見たくもない。自分に失望した。初めからわかっていたことだ。協力者が必要だったとはいえ、其処は一線を引くべきところだったと。
わかっていて甘えたのだ。なんて情けない。まるで己が許せない。
水守は怒るわけでも、文句を言うわけでもなく一歩引いた。すまない、と心の中で呟くだけでは、きっと贖罪にはならないだろう。それでもそう思わざるを得なかった。
「……元よりこれが罠なら、態々それに乗っかってやろうってのに戦う必要もないと思わないか? それともそうして負けないと筋書き通りじゃないからお前が困るのか」
「…………」
言われて男はすんなりと戦闘態勢を解いた。水守は自分の荒い息を悟られないよう呼吸を止めた。壱川は鋭い眼光で男を睨んでいる。
「俺が罠にかからないと思って態とこの子を呼んだのか? なら、かなり性格が悪いな」
「…………とある方がお前達を呼んでいる」
男がようやく言葉を発した。やはり、東雲 宵一の言う通り罠だったらしい。それならそれでいいと思ってはいたが、すんなり男がそれを認めたことに驚いた。いや、壱川の怒気に包まれたこと空気に押し負けたのかもしれない。自分が負けるビジョンを描いてしまっては、仕方のないことだろう。
「場所を言おう。もう、戦うのはやめておく。お前には勝てる気がしない。無駄な戦闘は馬鹿がする事だ」
「ああ、そうだな」
壱川もようやく肩の力を抜いた。こんな呆気なく解決するなんて、先程まで死の淵に追いやられていたことが馬鹿らしくてならない。そう思って水守も肩の力を抜いた瞬間だ。
「俺は馬鹿だ」
そう宣言した。同時に拳と肌がぶつかり合う嫌な音が響く。更に同時に男が床に崩れ落ち、意識を失った。
「ちょっ!!はッ!? 今穏便に済む流れだったじゃない!!いやスッキリしたけど!!スッキリしたけどさ!!」
「足をぶつけたのか?すぐに冷やそう」
「いや聞け!!人の話を!!」
「なんだ、怪我までさせられてるんだ。殴るくらいいいだろ」
「アンタそんなキャラだったっけ!暴力嫌いみたいな感じじゃなかったっけ!!」
「いいから」
険しい顔のままだった。水守の知っている壱川は、こんな風に感情的に人を殴ったりはしない。余程腹が立っていたのだろう。一体何に、なんてそんなのは前話でしっかりと口に出してくれていたのが、気になる人は猫猫事件帖 オペラ座の歌姫失踪事件弐を読み返そう。
「…………あのさあ」
黙々と水守の足を手当てする壱川に声をかける。大した反応はない。いつもなら胡散臭い笑顔で返事の一つくらいする癖に。
「その……ごめんね」
「……」
「アタシが……馬鹿だったと思う。一人で来るべきじゃなかったし、アンタに助けを求めるのも…手だったと思う」
「…………」
無言が続いた。耐えられなかった。一体壱川が今何を考えているのか、わかりかねる。それが異様なまでに恐かった。
しかしそれだけでは収まらない。水守は恐いなんて感情で縮こまり震え上がる質じゃないのだ。段々と怒りが湧いて来る。遂にそれが頭のてっぺんまで達して、ぷつりと何かがキレる音がした。
「怒ってるにしてもなんとか言いなさいよ!!」
パァン!
渾身のビンタ。いい音が鳴った。赤くなった頬。家中に罵倒がこだまする。
しかしその先、水守がそれ以上の文句を言うことはなかった。壱川はビンタの勢いのまま、顔を背けて何も言わない。怒りも、悲しみも、何もぶつけてこなかった。
一方的だ。水守は気付いた。いつだって感情は、水守から壱川への一方通行だった。それでも少しは好かれていたつもりだ。だけどそれ以外の感情を、この男がぶつけてくれたことなど一度もないのだ。
「……綾ちゃん」
壱川が、一度だけ水守の手を握った。それはまるで、駄々をこねる子供に言い聞かせる大人のようだった。
その手をすぐに解いて、壱川は立ち上がった。
「探偵ごっこはここまでだ。もう文句も聞かない、ここに居てくれ」
無慈悲で理不尽で、そして何より水守の為である言葉。わかっていて、唇が震えた。わかっている。自分は誰よりも部外者だ。だからこそ選ばれたんだろう。だけどそれでも、はい、そうですか、さようならとはいかない。
水守は震える手で拳を作って、精一杯の声を張り上げた。
「はあ!? ふざけんな!こんなところで待ってられるわけないじゃん!」
「言っただろう、文句は聞かない。君は此処に」
「言うわよ!文句も愚痴も!そんな意味のわかんない命令聞けるわけない!!」
声が震えた。
「綾」
「ほんと散々だった!走らされて痛い目あってネットで叩かれて!説明もなしにわけわかんないことに巻き込まれて、それでも此処まで来たのは……ここまで、来たのは!」
「……綾ちゃん」
嗚呼、これでは駄々をこねる子供と何が違うっていうんだろう。一線を引いていたから上手くいっていた。それ以上は超えないと、自分で決めていた。それが心地よかったんじゃなかったか。
「……絶対聞いてやらない、文句だって言い続けてやる!アタシはアンタの相棒なの!仕事なの!いっつも勝手に自己完結して、馬鹿じゃないの!?情けない顔すんな!弱気になるな!!そんな風になるくらいなら頼れっつってんのわかんない!?」
最早それでは説明が付かないところまで、来てしまったんだろうか。
水守はもう一度引っ叩いてやろうと手を振り上げた。しかしその手は行き場を失って、静かに項垂れるだけに終わる。
また無言が、部屋の中を支配した。

「たのもーーーーーーう!!!!」
バタン!
勢いよく扉を開く。勿論入って来たのは、東京一空気の読めない探偵だ。遅過ぎるのが心配になって、見に来たんだろう。
後ろから顔を出した宮山は、部屋の空気を吸い込んで何があったのか察したらしい。申し訳なさそうに、半ば呆れ気味に、彼は言った。
「えーと……なんかすいません」
壱川は倒れている男を一瞥する。まだ当分は起きないだろうと思い、そのまま木野宮と宮山を横切って部屋から出た。空気があまりに薄い。早くこの部屋から出たいと、そう思っていた。
「いや……助かったよ」
宮山の肩を叩いてそう告げる。水守は呆然と床を見つめ、転がる男に木野宮が駆け寄る。
嫌な予感の方向性が違う。
そう思って、宮山は一人唸りだした。




◯◯◯




男が目覚めた頃には夕方になっていた。壱川がそれを柱へ縛り付け、男に質問を繰り返しているのを遠目に見る。反対方向に目を向けると、遊んでいる木野宮とそれを見守る宮山が見えた。
「終わったよ」
その声の方向を見る。少し気怠げに眉を下げて、壱川は家から出て来た。
「失踪者は死んではいないらしい。……けど時間の問題だろうな。指定された場所はここからかなり離れてる」
「かなり怯えられてたみたいだけど」
「まあ、人生で初めて渾身の力で人を殴ったからな」
「……そんなに怒らなくたって良かったんじゃないの。別にアタシだって上手い事やってたわよ」
そっぽを向いてやる。壱川に対する当てつけだ。強がりに気付きながら、壱川は溜息を吐いた。
「俺は君に対しても怒ってるんだけど」
「はあ!? 意味わかんないし、怒ってるのはアタシの方だし!大体、連絡寄越さなくなったのもアンタの方じゃない!」
「単に忙しかったんだ。……普段から俺言ってたよな?無茶はするなって。こんなの論外だ。最悪の場合怪我じゃ済まなかった」
「そんなの今更!私はいつだって覚悟ができてるのに、勝手にアンタが保護者気取りで言ってるだけ!」
意味のない言い訳と怒り。水守は身体に残った全身全霊の強がりを使った。しかし壱川は、それに呼応する事なく口を開く。
「俺はできてない」
弱気な声だった。責めるような、苦しむような。
「何……」
「君に覚悟ができていても、俺にはできてない。……頼むよ、本当に。もうこれ以上…」
水守が肩を落とす。一体、なんだと言うのか。それならそうと、しっかり突き放してくれればいいじゃないか。なのに嗚呼、この男はなんて酷い顔をする。
「それじゃ……」
目を細めたのは、夕日が眩しいだけ。自分に言い聞かせる。
「それじゃ結局、アタシじゃダメってことじゃない」
綾、と。呟いて壱川の手が此方へ伸びた。一体何処へ向かったというのか。行き先を手に聞く前に、水守はそれを払い除ける。
「それでも行く。絶対に行くから。…その後で、嫌ならもう突き放せばいい。でもこれはアタシが受けた依頼だから、アタシがやる。他に理由も意味もない。アンタに指図される筋合いもない」
言い残して、水守は宮山に詳細を伝えるべく去った。壱川の手が、行き場を探して空気を掻いた。
なんでどうして、こんなにも上手くいかないのだろうか。
遠目に木野宮を見る。なんだか懐かしい気持ちになって、途端に苦しくなった。

オペラ座の歌姫失踪事件 弐

ストーカー兼ファンの男の家はすぐに見つかった。と、いうのも普段から挙動がおかしいらしく、この辺の地区では結構有名だったらしい。古びた家の前で、三人は電柱な隠れながら男が家から出るのを見守っていた。
「取り敢えず忍び込んで何かないか捜索……」
「俺が行くよ、二人はここで待ってて」
「え~!わたしも行きたい~!」
「ダメ。危ないからここで待ってて」
「みやまくんと一緒じゃなきゃやだ~!」
「……ダメ。絶対連れてかない」
「アタシが行く」
無謀な言い合いを遮って、水守は名乗り出た。
「何もなかったらすぐ帰ってくるし、何かあってもすぐ帰ってくる。だから待ってて」
「仲間がいる可能性もある」
「そしたら殴る」
腕まくりをして、水守は胸を叩いた。
「絶対絶対やり遂げるって決めたんだから!」
その瞳に、誰かへの熱い闘志を燃やして。




猫猫事件帖
オペラ座の歌姫失踪事件 弐



無用心にもその家は窓に鍵がかかってなかった。軽い身のこなしで侵入を果たした水守は、東雲の言葉を思い出す。
確かに罠かもしれない。ただ、罠だとすれば壱川が此処にいないのはかなりの誤算だろう。今まで怪盗団が関係あると思しき事件には必ず壱川もいた。相手は今も壱川がいると思って警戒しているかもしれない。
だが、壱川は此処にいない。どこにいるのかも知らない。水守が敵地の真ん中にいることも、依頼を受けたことさえ知らないのだ。
そう思うと、こんなに心細いことはなかった。反面苛立ちも強い。いなくても大丈夫だと自分に言い聞かせて、水守は家の中を彷徨った。
別段、普通の家である。少し生活感に欠けているが、それでも端々から普通の生活が感じとられるような家だ。特に変わったものもないし、人の気配もしない。
水守は首を傾げながら最大限の注意を払った。罠がないか、カメラがないか。物陰に人が隠れてはいないか。色々な箇所を慎重に確かめながら進む。
だがやはり、収穫と言える収穫はなさそうだ。ストーカーなんて言うから部屋の壁一面に写真が貼られているくらいしてもいいと思うのだが。
「何にもないじゃない。証拠になりそうなものも…」
机の引き出しを開けてみる。ペンが一本入っているだけで、特に他には何もない。
押入れを開けてみる。来客用であろう布団が入っているだけで、此処にも何もない。
水守はどんどん不気味な気持ちに襲われ始めた。さっき、家から出てきた男は確かに異常者の目付きをしていた。何処を見ているかわからず、時折首を傾げたり、殺気を放ったりするのだ。だが、実際家は普通だ。普通以外の何者でもない。こんな風に彼は普通の生活をしている淵で、ストーカー紛いの行為を繰り返している。そのギャップを気持ち悪く思いながら、水守は早々に退散することを決めた。
あまり長居もしていられない。外で二人が見張ってくれていると言えども、いつ何時危険が襲ってくるかわからない。これが怪盗団の仕組んだことなら尚更だ。教会での事件はかなり手が込んでいた。エンターテイメントの名の下に犯罪を犯す気持ちが水守にはわからないが、それは水守にわからない何かを持っていると確信させるだけでも十分だろう。
予測が付かない。それだけで不安の要素は十分だった。ましてや一人。言いつつそのへんの男一人くらいになら特に負ける気もしないのだが、相手は犯罪者である。
水守は玄関に向かって歩き始めた。スマートフォンを取り出すと、先ほど交換した宮山の連絡先から異常なしとメッセージが届いている。
「これだけドキドキしといて収穫無しか……」
一人で肩を落として呟いた。
それと、殆ど同時だった。空気が淀んだような感覚。匂いだとか、気配だとか色んなものをひっくるめてそういう感覚がした。急いで振り返れば、そこには男が立っていた。家を出たはずの男だ。しまった、と声を出す暇も惜しい。水守はすぐに来たるべき衝撃を交わすべく屈んだが、男は最初から水守の上半身など狙ってはいなかった。ガクン、と足から力が抜ける。男の拳が水守の足に入ったのだとわかると同時に身体は簡単に崩れ落ちた。
多分、キッチンの隣にあった裏口から戻ってきたのだろう。水守は急いで態勢を整える。男の手に小ぶりのナイフがあることを確認して、喉が鳴った。
だが水守の決意も強い。彼女を強くするのは何よりも怒りだ。元気がないと怒れないし、怒らないと元気にならない。そんな人間なのだ。未だ恐怖より怒りが勝っている。勿論怒りの対象は殴りかかってきた男に対してではなく、此処にいない髭面の男に対してだ。
「アンタが女優を誘拐した? もしくは殺した? どうなの、答えなさいよ」
強気な言葉に男は唖然としていた。普通なら大抵の人間は怯えて命乞いでもするシーンだ。だが水守はそうしない。怖くないからではない。勿論ナイフも男も怖い。だがそれ以上に、ずっと上回る怒りが水守を突き動かしている。
「答えろって言ってんの!」
痛む足など気にもならない。水守は強気な姿勢を崩さず噛み付くが、男は男で何も答えなかった。そしてしばしの静寂。男はその間に何かを判断したらしい。ついに彼は動き出した。
ナイフが振られる。間一髪で避ける。本当に間一髪だ。水守には明乃のような超人的な身体能力もなければ、東雲のように歴戦の勘なんてものも備わっていない。だがその一振りで、男が水守を殺すに至らないことはわかった。
急所を狙っていない。多分、目的は殺すことではなく捕まえることだろう。
それだけでかなりの心の余裕ができた。水守も馬鹿ではない。戦うより逃げる。外には仲間がいるのだから。背を向けないようにしながらジリジリと玄関に向かう。男は何かを感じ取ったかのように窓の外を見た。その一瞬を突いて水守は玄関に向かって走る。滑り込むような姿勢でドアノブに手を掛けた。これで勝ちだ。世の中、何も戦うことだけではない。思ったと同時に木の抉れる音がする。男が投げたナイフが、玄関に突き刺さった音だった。ほんの数センチの差で当たらなかったものの、血の気が引く。上手くドアノブが回せないのは、焦ったからか鍵がかかっているからかの判別もつかない。
数秒で男は水守の背後に到着していた。脇腹の下を潜り抜けてやり過ごすが、それでも家の中に戻されただけであって逃げられたわけではない。
男は無表情のままに玄関からナイフを引き抜いた。今度は当てると、目が物語っているように思える。
水守は後悔した。
しかし怒りが消えることもない。負けたくはない。見ず知らずの他人に。髭面の男に。何より自分に。
「……冗談じゃないわよ」
罠だろうが怪盗団だろうがストーカーだろうがなんだって良かった。そんなこと、水守にとっては些細なことだ。怪盗としての秩序だとかルールだとか、そんなことは知らない。どうだっていい。大切なのは水守が探偵であること。罠だったとしても、依頼を受けたことにある。
決意が固まるが、それでも先程打ち付けられた足が痛んだ。上手く力が入らない。数分すれば治るだろうが、その数分間男が待ってくれるとは思えない。
息を殺した。焦りを悟られないように。
願うことも祈ることもしない。信じるのは自分の運だけ。それが水守綾の強気で本気。
「……アタシがどうなろうと外にいる仲間が気付いてくれる。アンタは捕まるし、怪盗団とかいう連中もそのうちやっつけられるわよ」
「……」
「なんでわかるかって? さあなんでだろ。それが王道ってやつだからじゃない!」
気に食わなかったのか、なんなのか。男は急に小さく呻いたと思うとそのまま水守にナイフを向けて突進してきた。避けることも出来ただろう。あまりに率直すぎる真っ直ぐな攻撃だ。
だが水守は避けられなかった。
否、避けさせてもらえなかった。
唐突に軽くなった身体に目をぱちくりと開ける。それは何度か体験したことのある感覚で……そうだ、水守が酒に酔いすぎて立てなくなった時なんかによく感じる感覚だ。あのふわふわとした感覚はそういうことだったのかと腑に落ちる。水守は怒る事すら忘れて、顔を上げた。
「……君の強気なところは好きだけど、少し困ったところだな」
「……ッじゅ……」
身体は浮いていた。というか抱えられていた。いとも軽々とその男は水守を持ち上げ、先程水守がいた場所よりも一歩引いたところにいる。
壱川遵。刑事にして怪盗。そして、水守綾の相棒である。
状況を理解していち早く声を上げたのは、男ではなく水守だった。
「お、降ろせ!降ろせ降ろせ降ろせ!!死んだほうがマシなんだけど!この歳でお姫様抱っこはどう考えてもアウト!!!」
「助けたのに第一声がそれか……」
「頼んでないし!ていうかなんでここ……!」
「いいから静かに、彼はご立腹のようだ」
言われて男を見る。何故だか息を荒くしている男から立つ殺気に背筋が凍り付いた。
「何を怒ってるのか知らないけど、ふざけるなよ」
いいから早く降ろせと言いたげな視線を受けながら、壱川は水守を抱きかかえた手に力が入るのを止められなかった。胡散臭い笑顔だ。いつも通り。だが雰囲気が違う事くらい水守でなくてもわかる。そう、彼は―――
「相棒を危険にさらされて、怒っているのは俺の方だ」

彼は間違いなく、怒っていた。

オペラ座の歌姫失踪事件 壱

木曜日。個人的に気怠い曜日である。
探偵・水守綾は唐突に現れた依頼人と交渉を始めたところだった。珍しく壱川からの依頼ではない。と、いうのも壱川からの連絡がここ一週間ほど殆ど来ていない。普段は壱川からの仕事依頼で大抵自分で決めた月のノルマを達成しているのだが、件の天球儀が盗まれたあたりからまたテレビやネットで話題に上った為、普通の依頼人が来ることも少なくはない。とは言え、その大抵が猫探しだとか人探しだとか……あまり面白いものではないのだが。ただ、今回も人探しには変わりないが明らかに家出少女捜索……なんてことにはいきそうもなかった。
まず、提示された報酬金の桁が違う。大抵こういう時は怪しむべきなのだが、水守は捜索している人間の情報を聞いて嗚呼、と頷いた。
捜されているのは女優だ。それも昨今人気の。更に言えば一週間程前、殺人未遂で犠牲者になりかけたあの女優だった。そりゃあ報酬金も高いだろう。彼女のマネージャーを名乗る男はオドオドしながら話を進めた。本当に焦っているようで水守は二つ返事でその依頼を受けた。
少し頭を冷やしたかったのもある。というのも、壱川から一週間も連絡が来ないなんて、出会ってから初めての事だ。休みの日だって共に食事に出かけるし、忙しい時は頼んでもいないのにメッセージが送られて来る。それをメンタルケアを兼ねている、なんて彼は言うが殆ど友人のそれだった。
正直、腹が立っている。彼の勝手な行動に出来るだけ口を出さないようにと決めて来たが、そろそろ目に余るのだ。なんせ、件の天球儀から始まり、明らかに自分まで巻き込まれている。そこに関しての覚悟はきちんとあるにもかかわらず、此処に来て突き放すとはどういう了見か。そんな急に遠ざけられたところではいそうですかなんて素直に頷けるような性格でもなかった。
だからこれはクールダウンも兼ねての仕事だ。なんなら、警察も動いているというのだから警察を出し抜いてやる、くらいの気持ちがある。
水守は勝手に燃え上がりながら任せてくださいと胸を叩いた。報酬金を頂いた暁には、ハーゲンダッツを大量に買ってやろう……なんて思いながら。
まだ、混沌の縁に立っていることを、彼女は知らない。



猫猫事件帖
オペラ座の歌姫失踪事件 壱




時を同じくして木曜日の昼下がり。事務所を兼ねている一軒家にとある男が訪ねて来た。貰った名刺には有名なプロダクションの名前が印字されており、綺麗に箔押しされたその文字を見ながら探偵・宮山 紅葉は目を丸くした。木野宮という名のブランドも伊達ではなかったらしい。提示された多額の報酬金は多すぎるからとその半分ということで請け負ったが、当の探偵木野宮きのみは不服そうに頬杖をついて反論した。
女優の捜索を頼んで来た男は、連絡先を渡してそそくさとその場から立ち去り消えた。木野宮が先週助けた(……のだろうか?)女優とおんなじ人間が、跡形も残さず消えてしまったのだという。命を狙われていたことから考えるに、既に死亡していることも頭において断ろうかとも思ったが、しかし木野宮の経験のためである。何より宮山が謎を解きたいがためである。二人は貰った数少ない情報をメモ帳に書き留めながら話した。
「あの女優さんいなくなっちゃったんだね~」
「取り敢えず、自宅のマンションとか行ってみて聞き込みとかしようか」
「聞き込み!聞き込み得意だよ!」
「だと思うよ。ただ聞き込み以外であんまり情報が得られそうにないのがネックだな。一応ネットで検索とかもかけとくか」
「とにかくいこ~れっつご~!」
「こら、帽子をちゃんと被りなさい」
机の上に置き去りにされていた帽子を木野宮に被せて、宮山も玄関を出る。この街は小さくはないがさほど大きくもない。まさかそんな近くに人気女優が住んでいたとは驚きだが、まあ芸能人なんてそんなものなのだろう。きっと街中ですれ違ったって、宮山はかすりも気付かない自信がある。あまりテレビを見ないからだ。
街の中には高級住宅街が二つ程存在している。高級住宅街、と言っても気持ち程度なのだが、そこには一等高いマンションがあることは地元の人間なら誰でも知っていた。それも建ったのが結構最近の話で、何かと話題になったし新聞なんかにも大々的に広告が出ていたからというのもある。
二人は早速マンションに向かった。木曜日の昼下がり。勿論木野宮は学校をサボっている。親が有名なこともあり事件の一言で何かと免除されていると聞いたが、それが本当なのか宮山には確かめる術がない。まあ、学校に通わなくなったところで探偵になるのなら問題はないだろう。なんて呑気なことを考えている。本人はもっと呑気だが。
「きっきこみ~きっきこみ~」
「はしゃがないの」
「だってだって事件ですよ!? 依頼ですよ!? うれしいな~たのしいな~」
「…………」
やはり呑気だが。
宮山がマンションの管理人に掛け合う。敢えて木野宮の姿は見せずに木野宮の名と依頼人に貰った名刺を見せると、意外にもすぐ扉を開けてくれた。相変わらずスキップをしながらぐるぐる回る木野宮を連れて、マンションのエレベーターを待つ。
高級住宅街のマンションというに相応しい内装は、入り口からその偉大さを証明が照らしていた。やけに広いロビーに、入ってすぐに見える中庭。綺麗に手入れされた木々やその奥に置かれたバイクや自転車が住んでいる人間の裕福さを物語っていた。
埃臭い屋敷に住んでいる宮山には似つかわしくない場所だが、特に場違いさも感じない。いやらしくない上品な高級さというものがこのマンションには立ち込めていた。
渡された住所のメモによると、女優が住んでいたのは四〇八号室。高層マンションにしては低めの位置にあるその部屋を訪れるや否や、一人の男が目に入った。やけに長い廊下にぽつんと佇む彼は、とある部屋の扉を見詰めて物憂げに溜息を吐いている。前の扉に四〇七と表記されているから、女優の住んでいた部屋で間違いなさそうだった。
木野宮が男に気付くより先に、宮山は声を掛ける。男の名前は……確か壱川遵。最近よく遭遇する刑事なのだが、どうやら怪盗と繋がりがあるらしいということだけは知っている。
「こんにちは、刑事さん」
「あー!こんにちは!」
「……ああ、奇遇だな。君達とはよく会う」
咥えたまま火を付けていない煙草を口から取っ払って、壱川は少し屈んでから木野宮にこんにちは、と返した。
「捜査でここに?」
「まあな。君たちも……まあこんな所に来るくらいだ。自主捜査か?」
「いえ、今回は依頼で。女優が行方不明になったとかって、マネージャーの男がさっき来たんで」
「……成る程? 残念だが鍵は閉まってる。というか警察が押収してるから中は見れない。俺も持ってないんだ」
両手を挙げてお手上げだというポーズを取る壱川に、宮山は違和感を覚えた。なら何故彼は此処にいるのか。首を傾げながらも聞きはしない。壱川は踵を翻して早速退散するようだった。
「あんまり首突っ込まない方がその子の為だ。君は保護者も兼ねているんだろう」
「この子の為かどうかはわかりませんよ。少なくとも俺はこの子の成長になるなら片っ端から事件に当たる」
「そりゃ仕事だからかい。構わないが、……まあ、気を付けてくれ」
手をヒラヒラと振っては、壱川がゆっくりと足を進ませる。宮山はやはり壱川が此処にいた理由を聞かないが、しかし一つだけ声を上げた。
「今日は相棒の女性はいないんですね。水守さん……でしたっけ」
なんとなくだ。勘がそう言えと告げたが、思惑通りと言っていいのか壱川は足を止めた。
「彼女は……」
振り向こうとして、途中でやめる。重い空気を纏った言葉に宮山は自分の問いかけに後悔しなかった。
「彼女は忙しいんだ。それじゃ」
今度こそ壱川は反対側の出口に向かって消えていった。水守という探偵と壱川はいつも一緒にいるイメージだったが、そうでもないのか。はたまた何かあったのか。考えながら扉に手を掛けるが、彼の言った通りその部屋は施錠されていた。
ふむ、と顎に手を置く。木野宮は廊下に座り込んで難題ですな~と唸っている。
と、壱川が向かった階段とは別方向…宮山たちが来た階段の方から足音が聞こえた。すかさず振り返ると、其処にはまた物憂げな顔をした、別の人間の顔があった。
「ん……? アンタら……」
「あー!探偵のお姉さんだ!!」
「……今日はよく人と会うな」
忙しいはずの探偵、水守綾。彼女は重い足取りで階段を使い、此処まで来たらしい。エレベーターは使わなかったのかと思いつつ、宮山がこんにちは、と挨拶すれば水守も力なく返した。
「アンタらも依頼受けて来たの?まあその様子じゃ部屋はどうせ閉まってるんだろうけど」
「そうだよー!依頼で来たんだよ!お揃いだね!!」
「……御察しの通り部屋は閉まってます、鍵も警察が押収していると聞きました」
「ふーん、まあ期待してなかったからいいけどさ。此処以外に特に探す場所ないし……あーもう、人探しとか嫌いなのよね」
そんな文句を言いながらも、水守は宮山の前に来て、一応と言わんばかりにドアノブを捻った。
「……刑事さんは一緒じゃないんですか?」
わかりきった質問をしてみる。この人はいつも怒っているから喧嘩でもしたのかもしれない。
「はあ? ……別に、いつも一緒にいるわけじゃないし」
「刑事のお兄さんね~さっき向こうに行ったよ!」
「嗚呼、こら」
「ふーん……あっそ。…………まあどうだっていいけど……」
含みのある言い方だった。やはり喧嘩でもしたのだろうか。
宮山にとって壱川は不明瞭な存在だ。刑事であり、しかし探偵とも怪盗とも繋がりがある。その立ち位置が何を意味するのか、よくわからない。一応相棒として組んでいるのはこの女らしいが、それ自体も何処まで本心なのか見えない。
そう、あの男は見えないのだ。何を背負って、何の為に動いているのか。
宮山は思い立ったかのように口を開いた。
「情報交換も兼ねて、お茶しませんか?近くに美味しい喫茶店があるので」
「……情報交換?まあいいけど。同業者に手を貸すのは癪だけど早速手詰まりって感じするしね」
「お茶!わーい!ケーキ食べたい!モンブランとか!モンブランとか!」
モンブランいいわね」
他愛のない会話に一息つきながら、一行は宮山を先頭にして喫茶店に向かった。たまに一人で来る喫茶店である。店内が静かで、何より店主が揃えた本を読めるのがいい。彼のセンスは宮山の趣味とよく合い、珈琲も絶品だ。あまり食べないケーキも、今日は二人に合わせて頼んでみた。すぐに運ばれて来たフルーツタルトは優しい照明に照らされて何処か自慢気だ。
「……それで? 情報交換って言っても、私特に何も得てないけど。依頼主が一緒なら、元の情報も共有してるだろうし」
「うちに来たのはマネージャーだったかな。少し太った人の良さそうな男でした」
「私のとこもそうだった。嗚呼、進展無しっていうのがもう見えちゃった」
肩を落としながら水守がチーズケーキを突く。
「……踏み込んだ話、申し訳ないんですが」
堅苦しい話し方、辞めてくれない? 折角ケーキ食べてリフレッシュしてるとこなんだし」
「……それじゃあ」
木野宮は宮山の横でオレンジジュースをごくごく飲んでいる。早々に食べきってしまったモンブランのおかわりをご所望のようで、一人駆け足でレジに走って行った。
「壱川さんとはどういう関係で?」
「事情聴取みたい。先に聞いておきたいんだけど、それってどういう意味で聞いてるの」
「ああ、野暮ったい詮索なんかではなく。どうにもあの小さい怪盗たちとも繋がりがあるようなのに、関係がイマイチ見えなくて」
「……あんまり詳しくは話せない。守秘義務って奴があるからね。でもあの東雲とかいう怪盗一派をアイツは敵視してない。私はまあ……今の所よくわかんないかな。正直、私もよくわかってない」
水守はフォークを咥えたまま唸った。何か不服そうな顔だ。一方木野宮は皿に乗ったショートケーキを走って運んでいる。
「最近、連絡来ないから。仕事のことも、それ以外も。それより前は休みの日も結構一緒にいたけどね。メンタルケアなんて言って、監視も兼ねてたと思う。ただそれがパッタリ止んで、私もよくわかんないまま……って感じ。何があったのかとか、何も知らされてないし」
宮山もううん……と唸った。ついに壱川という男がよくわからない。いったい彼は何者で、何が目的なのか。だが、一つだけ言えることがある。
「水守さんに連絡しないのは、水守さんの事を思って……じゃないかな」
「は?」
「さっき会った時、俺に対して木野宮のことを危惧するようなことを言っていたから。彼のことはよくわからないが、悪い人ではなさそうだし。そう思うと水守さんに危険が及ぶのを避ける為に態と貴女を避けてるのかも」
「待って、話が見えない。私に危険が、なんてそんな今更……」
彼女は本当に理解しがたい、という顔をしていた。それに面食らったのは誰より宮山だ。先週、劇場での出来事を思い出す。怪盗団と名乗る集団が女優を狙い、その果てに東雲や明乃を知っているかのような口振りをしていたこと。だから、その場にいた全員が彼らには気を付けよう、誰が狙われるかわからない…という話で終わったのだが。確かにそこに水守はいなかった。てっきり壱川がそのことを伝えていると思っていたが…と、宮山は慎重に口を開く。
「先週の劇場での事件」
「何よ急に」
「当事者は女優と犯人だけじゃない。うちの木野宮と、怪盗の片割……明乃ちゃんだったかな。二人ともそこにいたんだけど」
予想通り、知らなかったのだろう。彼女は口を開けていた。
「犯人は怪盗団、と呼ばれる集団らしい。どうも怪盗組だけじゃなくて、俺たちまで目を付けられてそうだから気を付けろ……って話になって」
「……何それ」
「その場に壱川さんもいたから、聞いていたかと」
水守がわなわなと震え始める。木野宮は気にせずショートケーキを頬張っている。
「何それ!あのクソヒゲ野郎~!そんなの一言も聞いてないんだけどっ!!」
言って水守はスマートフォンを取り出した。電話帳から壱川の名をすぐに出すが、しかしその怒りもすぐに冷めたのか彼女がコールする事はない。
「……はぁ、もういい。なんか馬鹿らしい」
あからさまに落ち込んだ様子で、水守はスマートフォンを机に置き、チーズケーキを口に運んだ。それを見てなのか天然なのか、木野宮が食べる?とショートケーキを一口分突き刺した状態のフォークを水守に向ける。彼女は素直に一口で差し出されたショートケーキを平らげた。
「……よし。もういい、もういいわ。落ち込んでても仕方ないし、この事件パパッと解決して、あんなクソ野郎いなくてもやっていけるって証明して、自立する。そうする!そうしてやる!やってやるんだからーーー!!!」
うん。立ち直りが早い。
頷きながら宮山もフルーツタルトを咀嚼した。とにかく落ち込みから立ち直れたなら話は早い。だが、怪盗団の話が引っかかっているのも確かだ。彼女を一人にするのは少し不安だと勘が告げていた。
「よかったらこのまま一緒に調査しない? ……人数多い方が助かるし、何かあっても安心だから」
「そーね。乗った。怪盗団だかなんだか知らないけど、すぐに捜し出してパパッとやっつけちゃお」
「やっつけちゃおー!!!」
水守はガッツポーズをしてから、頼んでいた紅茶が美味しいと絶賛し始めた。やけに上機嫌になっていたから紅茶が好きなのかもしれない。
そうして一行はチームを組むことになったが、水守と木野宮のおかわりの猛攻によって喫茶店を出るのは二時間後の話となった。


○○○


商店街。高級マンションからそう遠くはないそこは、平日の昼間だからか閑散としていた。とは言え人がいないわけではない。手分けして聞き込みをしていると何人か女優を知っていると言っていたが、彼女もテレビに舞台に引っ張りだこで疲れているだろう、ということで不必要に話しかける事はタブーとなっていたらしい。故に、有力な情報は掴めなかった。
三人は商店街を巡り歩きながら、木野宮のアイスクリーム食べたい!の一言で休憩を決意する。ちょうど近くの八百屋にソフトクリームの旗が立っていたので、そこに立ち寄ることにする。チョコがいい!と騒ぐ木野宮を先頭にして、一行は八百屋に向かった。
が。水守の足が止まる。それを見て宮山も止まったが、止まった理由はすぐにわかった。
八百屋の店主と話している後ろ姿に見覚えがあるのだ。水守は嫌そうな顔をしたがすぐに肩を竦めてその人物に話しかけに行った。
「ちょっと」
「あん? なんだよ、今値切ってるとこなんだよ、邪魔すんな……って」
「アンタこんな昼間から何してんの? ……ていうか、この近くに住んでるわけ?個人情報だだ漏れで大丈夫?」
「クソ探偵野郎………………」
東雲 宵一。スーパーの袋を片手に、今まさに八百屋から大根を値切ろうとしているその人物である。
「こんにちは。お買い物中に失礼」
「よりによってお前らもいんのかよ!暇かよ!三人仲良く揃ってこんな平日の昼間に何してんだ!」
「調査中です~どっかの怪盗くんと違ってお使い中じゃないです~」
「馬鹿にすんな!今日は明乃の家事おやすみデーだから仕方ねえんだよ!」
家事おやすみデーて……。
その時、探偵たちは一丸となった。
「つか調査中だ~? こんな商店街でか。猫でも探してんのか?」
「いや、女優を。先週あった例のね。失踪したらしいんだ、何か知らないか?」
「あん? ……お前らな~!気を付けろよって言ったばっかりだろ!人の話聞けよ!馬鹿なのか!絶対馬鹿だろ!!」
「私の仕事は私が決める!そんなの関係ないし、で、何か知らないの?」
言うと、八百屋の店主が木野宮にソフトクリームを渡しながら、ひょいと顔を出してきた。
「あのでっかいマンションに住んでた女優さんを探してんのかい」
「ええ。僕達探偵をやっていまして、とある人物からの依頼で目下捜索中なんです」
「ソフトクリームおいしい」
「嗚呼……探偵さん。そりゃ心強いな。あの人、うちでもたまに野菜買っていってたよ。人のいい美人さんだったな」
「ソフトクリームおいしい~!!」
「彼女、何か言ってませんでしたか? ほんの些細なことでも、なんでも」
「…………」
東雲が腕組みして、いかにも不服そうに八百屋を見つめている。木野宮は気にせずソフトクリームを食べ終えて、おかわり!と言いながら店主に三百円を渡した。
「そういや、最近妙なファンに追われて困ってるって言ってたなあ」
「妙なファン?」
「なんでも病的なストーカー気質らしくてな。近くに住んでるらしいとは言ってたが……結構まいってたみたいだよ、脅迫まがいの手紙がポストに大量に入れられたりね」
「……調べてみる価値はあるかな」
「嗚呼、大いに」
「おいお前ら」
東雲が話を遮るようにして声を上げた。
「わかってんだろうな。奴らは一筋縄じゃいかねえ、これも罠かもしれねえ。考えてみろ、先週出くわした女優が行方不明で、態々お前ら両方に依頼が来るなんて偶然にも程があんだろが。打ち切りを提案するが……まあ無駄だろうな。お前ら馬鹿だから。でも警戒しろ、無理はするな」
「……なんだ、案外優しいんだな」
「うるせえな。お前んとこのチビがうちの明乃の数少ない友達だから言ってやってんだよ、聞いてんのかチビ」
「チビじゃないもん!これからセクシーダイナマイトボディーになる予定だもん!!」
「嗚呼そうかよ、とにかく警戒しろ、わかったな」
そう言うと、東雲はぽん、と木野宮の帽子に手を置いた。
それから東雲と別れたが、特に家の場所を突き止めるような真似はしなかった。したところで東雲にバレて撒かれるのがオチだろう。
三人は八百屋の言っていたファンというのを探すことにした。燃え上がる水守の決心の隣に、呑気な探偵二人を添えて。
事件はまだ、始まったばかりである。