悲劇の短剣盗難事件 弐

さながら捕食し合う動物のような。
それをショーと呼ぶにはあまりに緊迫し過ぎていて、殺し合いと呼ぶにはあまりに愉快だった。
煌びやかな壇上で向き合う人間が二人。取り巻きのようにザワザワとそれを囲む男女と、呆然とそれを見ている観衆。
木野宮もまた、呆然としていた。唐突に隣に座っていた友人が消え、舞台に現れたと思ったら謎の人物と交戦し始めたのだから。
お互い呼吸を止めていた。なんなら、見ている人間も全員呼吸を止めていたかもしれない。にもかかわらず酸素が薄くなったかのような錯覚。しかし当の本人たちは至って落ち着いており、殆ど同時に息を吐いた。
一閃。明乃はナイフ使いというわけではない。ただ持ち運びやすく、用途が多い為にナイフを選んでいる。東雲はナイフ、いや、そもそも人を傷付けるような武器を好まないがあけのはそれを手放さなかった。本能的に感じていた東雲の「甘え」の部分に対抗する為だ。人の命は決して重くはない。軽いが為に大切に守らねばならない。だが、東雲はそれでも「人を傷付けず」、「自分も傷付かない」方法を考えていた。いざとなれば仕方ないだとか、その時の覚悟はできている、なんて言うが。やはり東雲 宵一は、何処かの刑事と比べる程ではないがそういったことを嫌う傾向がある。明乃にはわからない。それが怪盗たる秩序だと言うのなら尚のことだ。なんせ明乃は怪盗ではない。あくまで東雲の助手だ。だからこそ、東雲のそういったところをいつでもカバーできるようにという意味も込めて、人を殺傷できてしまうナイフを選んだ。
随分使い慣れたナイフを振る。安易に躱されるがそれも計算のうちだ。更に一歩踏み込んで懐に入れば周りにいた役者が悲鳴を上げた。ナイフを急速に下から突き出すと、敵は白髪を揺らしながらもそれも軽く躱した。さながらアクション映画。いや、それも目の前で繰り広げられては人間とさえ思えない。小さな舌打ちに敵はふふんと笑った。一度下がって体勢を整えるが、その間も一向に攻撃してくる気配はない。
「そんなに気を張らないで。貴方の相手をするのは今じゃない。もっと相応しい舞台をきちんと用意するのに」
「何言ってるのかわかんない」
「勿体無いでしょう。こんな粗末な舞台では。そう思うくらいには買っているんですよ。貴方の事も、東雲宵一の事も」
明乃が眉を動かした。舞台に上がってから初めてのことだった。
明乃の興味対象は限りなく狭い。大抵のことに対しては結論的にどうでもいいと思ってしまうタイプだ。しかし東雲の事となると違う。東雲という存在は明乃の大半を変えた。そして今もあけのの大半を支えている。東雲との生活こそが明乃の生きる意味だ。怪盗をしていてもそうでなくても関係がない。東雲宵一という存在の力になる事が、何よりも明乃の力になる。
なんなら、意味もなくだらだらとした生活を一緒に続けるだけだって構わないのだが。兎にも角にも明乃はそこに関して敏感だった。東雲の脅威となるかもしれない相手。それだけで敵意を向けるには十分だ。
「貴方に彼女を助ける意味なんてないでしょう」
燕尾服の男は、転けたまま怯えるように震えている女優を見下ろした。
確かにそうだ。だが、明乃が危惧しているのは女優が殺されることではない。木野宮にそんな凄惨なものを見せたくないという、友情から芽生えた気持ちが自分を突き動かした。今は、もっと違う理由になったものの。
「我々には事情がある。海より深い事情というものが。貴方の安易な思想で野暮な事をするものではありませんよ」
「他人を殺していい事情なんて聞きたくもないけど」
「ありますよ。他人を殺していい事情というものが、この世には確かにあるでしょう。国が行う死刑と何も変わりはない。我々は我々の世界の中で生きているのだから、法にはない秩序や制裁が必要になる。そうしなければ困るのは我々ではなく民衆かも知れませんが」
「我々?」
「我々ですよ」
柔和な笑み。ではなかった。醜悪でもない。感情そのものを感じさせない笑みだった。背筋が凍るとはこういうことを言うのだろう。一瞬の怯みを見逃さず、男はひとつ、手を叩いた。同時に舞台の明かりがもう一度消える。しまった、と口に出した時にはもう遅い。復旧に時間はかからなかったが、舞台から煌めく白髪は影も残さず消えていた。
なんだったんだと騒めく客席を背に明乃は走り出す。自分なら何処から逃げるか考える。考える。考える。同時に走る。舞台袖を抜け、従業員用の通路を通って、短剣を捜索していた時に見かけた非常口を目指す。
そして辿り着く前に、向こう側から声が聞こえた。やたらと大きな声だ。聞き覚えのある、いや、さっきまで聞いていた声が。
「たのもーーう!!」
辿り着いた先、非常口の前にはやはり木野宮が立っていた。そしてその前には、件の白髪が。
「此処は通さないぞ!」
「きのみちゃん!!」
「明乃ちゃん!やっつけちゃってー!!」
ついに男は探偵と怪盗に挟まれた。肩を竦めて降参したかのような表情を見せているが、油断はできない。
「…どうして私が此処に来るとわかったんです?」
男が木野宮に問い掛ける。木野宮はしばし顎に手をあて、んー……と唸っていたがハッとしたかのように顔を上げ、声を上げた。
「勘!!!!!!!!」
「成る程、侮れませんね」
可笑しそうに笑うその姿は、先ほど感じていた悪寒を一切感じさせない普遍的な笑みだ。だからこそ余計に気持ちが悪い。
明乃はナイフを構えた。絶対に捕まえるという決心があった。東雲とどういう関係で、東雲に何をしようとしているのか。思うだけで湧き立つ怒りが隠しきれない。
「貴方の弱いところだ」
「……」
そして男は語り掛ける。耳を貸すなと自分に言うが、何故だか聞かずにはいられない。
「自分というものがない。東雲宵一に依存するばかりで本当に助けになるとでも?そうしているうちは永遠に三流のままだ。全くもって、怪盗であるかないか…グレーゾーンな存在というのは扱いにくくて仕方がない」
「何……」
「東雲宵一の為と言いながら本当は自分の為なんでしょう。貴方は怪盗だという自覚なく犯罪を犯している。それがどういうことかわかっていますか」
「わからないし、わかる気もない。宵一さんの力になる事が間違ってるとは思わない」
「それではただの……」
男の姿が遮られる。何か大きな……カーテンのようなもので。驚き目を見開くと同時に、明乃は振り返っていた。
「犯罪者」
言った声はよく透き通る声だった。聞き覚えがある。カーテンのようなものがマントだとわかった時には遅く、明乃は華奢な手からナイフを奪われていた。
「ただの犯罪者だよ。秩序があるから犯罪者ではなく、怪盗という名を名乗れるのに…そうでしょ?」
少女は何処からともなく現れた。協会での出来事がフラッシュバックする。唐突に現れ、混乱を招いたその笑みがある。
「黒堂彰……!!」
「あーー!!教会のーー!!!」
「こんにちは」
言うと共に彰は明乃から奪ったナイフを放り投げた。別段大切にしていたというわけでもないが、雑な扱いに対象の怒りを覚える。男はまた肩を竦めて笑っている。今度は嘲笑しているかのように見えた。
「その通り。怪盗が怪盗たる所以は秩序によって成される美徳があるからこそ。それを奪えば我々はただの犯罪者に成り下がる。東雲宵一が言うエンターテイメントもそれに則ったものだ。それを貴方が理解していないのでは何の話にもならない」
「……だから……何……」
「我々の目的は秩序を守る事。怪盗が怪盗である為に検閲し、制裁すること」
「めんどくさいことはいいから、逃げようよ。これ以上戦っても何の意味もないでしょ。任務は失敗。はい終了。行くよ」
「そう急かさないでくださいよ。機嫌が悪いようですが? ティータイムに間に合わなかったことを怒っているのなら、きちんと責任を取りましょう。今朝にマフィンを焼いたところだ」
「馬鹿なの? ねえ馬鹿なの? 今言うことなのそれ。いいから早く、遊んでないで動いて」
「仰せのままに」
「は……!?いやちょっと待っ…………」
くだらない会話に取り巻かれて、明乃は一瞬切れた緊張感を再度稼働させた。が、彰がマントを翻したかと思うとまた視界が鈍る。煙幕が狭い通路に行き渡り、向こう側からも人の悲鳴や慌てる声が聞こえた。
むせ返る煙の匂いに囲まれながら、明乃は手探りで木野宮を探した。手を掴んだと同時に木野宮の声が聞こえ、安心する。ホッとしたと同時に消えて行く二人の気配に胸がざわつきながら……。
そして薄まって行く煙の中、態とらしく床に置かれた悲劇の短剣だけが、未だ光を宿して持ち主を捜していた。


○○○


パトカーが煩くサイレンを鳴らして劇場を取り巻いた頃、明乃と木野宮は事情聴取を回避すべく近くの公園まで逃げていた。ベンチに座る木野宮は青空を見上げながら自動販売機で買ったオレンジジュースを両手で持ってごくごくと飲んでいる。
明乃はと言えば、同じように青空を見上げながら考え事をしていた。いや、考えるという行為に及んでいたかもわからない。上手く頭が働いていない。自分はいつの間にか思考停止の達人になっていたらしい。
思っているうちに、宮山と東雲が来た。後ろには現場にいた方がいいはずであろう男、壱川もいる。心配そうに駆け寄る宮山に対して、木野宮は喜んで抱き着いた。心配ないらしいとわかったのか、宮山が一息付いてから木野宮の頭にチョップを打ち込む。東雲は呆れた様子で明乃に近寄り、怪我はないかとだけ聞いて肩を竦めた。
「お前らなあ……出掛けるのはいいけど、無茶はするなってあんだけ言っただろうが」
「……ごめんなさい……」
やけにしおらしい明乃に面食らいながら、東雲は宮山の方を見た。
「まあ、無事で良かったけど。ごめんな、面倒だったろ、特に木野宮が」
「あ、いえ、あの……誘ったの私だから……ごめんねきのみちゃん……」
「んーん!楽しかったよ!でもまた今度ちゃんと見にこようね!」
木野宮は屈託のない笑顔で答える。ホッとして胸をなで下ろしたのは、木野宮がそう答えたことより宮山が嫌な顔をしなかったことに対しての方がでかい。保護者的な立ち位置なのだろうと伺えるからこそ、もう二度と遊ばないでくれ!なんて言われた時のことを考えていたのだ。
「そんで? 覆面で白髪に燕尾服男が俺の名前を出してたって?」
「え、ああ……うん。結局、よくわかんなかったんだけど……」
「女優も無事なんだろう」
「さっき警察に保護されたところだ。怪我もないって連絡が来たよ」
「まあ取り敢えずは良かったな。とは言え一体何者だ、同業者なのは確実だろうが…」
東雲が壱川の方を見る。そうだねえ、なんて軽く笑って見せているが、内心穏やかではないのだろう。明乃はそんなやりとりを見ながら口を開いた。
「あのね、女優さんが無事かどうか、抜ける前に確認しにいったの。そしたらすごく怯えてたみたいで」
「そりゃまあ、命を狙われたんだったらそうだろうな」
「うん、それでね、彼女しきりに……呟いてたんだけど」
公園に涼しい風が吹いた。爽やかな風は、これから更に始まる物語には、似つかわしくない。
「怪盗団に殺されるって」
壱川が顔を顰める。同時に東雲も似たような顔をした。木野宮はハッとしたような顔をする。だが、何かわかったのかどうかは定かではない。
「怪盗団……なあ」
「……無知ですまないんだけど、それって怪盗界隈では有名なものなの?」
宮山が聞いたのを合図に、壱川と東雲が視線を合わせる。
「んん……まあ一応ね。怪盗団……言えば怪盗だけ集めた集団なんだが。今まで盗んだものは数知れず、国境も越えて活躍してるって噂だ」
「だが怪盗団の目的は別に盗みじゃない。ましてや名を知らしめることでも力を誇示することでもない」
「それって?」
ああ……と。壱川の周りに重い空気が渦巻いた。
「怪盗の秩序を保つこと……怪盗にも暗黙の了解っていうのがある。人殺しはしない、金目のものは盗んでも金は盗むな、とかな。昔からあるんだよ、そういうのが。そういうのがないと、成り立たない世界だからな」
「それ!燕尾服の人も似たようなこと言ってた!」
「まあ、俺たちからしたらいつの間にか刷り込まれてたことだが、社会のマナーと一緒だな。電車は降りる人を優先するとか、そのレベルの話だ。なんとなくそういうもんがあるんだが、案外これがないと成り立たないっていうのはマジだ」
「それで、それを守る為の集団って事か? 探偵の俺からすれば、聞こえはいいんだけど」
「……まあそれだけならな。ただ奴らは手段を選ばない。秩序を守らない奴に与えられるのは更生じゃない、制裁だ」
明乃は思い出す。奴が悲劇の短剣を振るった瞬間、確かに渦巻いた確実な殺意を。
「結構ヤバイ連中なのはわかった。それで、その集団には件の女子高生怪盗もいるわけだ」
「俺たちは目付けられてんのかもな。俺の名前が出たのも、明乃の存在を知られているのもそういう事だろ。それに、何もあいつらは怪盗だけに制裁を下すわけじゃない。秩序を乱す者に対して、だ。そこのちびっこ探偵も気をつけた方がいいんじゃねーか」
「ちびっこじゃないもん!」
「俺よりはチビだろ」
東雲が鼻で笑うと、木野宮が地団駄を踏む。呆れたように宮山は木野宮の肩を掴んで、今日は帰ろうと促した。
「また会ったら話を聞かせてくれ。流石に穏やかにはいきそうもないし」
「また会ったら、な。精々ちゃんと子守しとけよ」
東雲が適当に手を振ると、そのまま二人は公園の出口へ向かっていった。壱川も渦巻く空気に耐えられなくなったのか、そろそろ現場に戻らなければまずいのか、それじゃあ俺もと口にして踵を翻す。
「おい」
と、東雲が声を掛けた。壱川はそれに足を止める。
「お前がどう思ってるかは知らねーが、覚悟はしとけよ。綺麗事じゃ済まないんだ、相棒を思うなら……もう少し考えろ」
珍しく刺すような声色だった。明乃は黙ってそれを聞いていたが、東雲が明乃に対して何かを思っていることはわかる。
「……ああ、わかってるよ」
半端な返事とも言えた。そのまま彼は背を向け消えたが、その背にあるものの重さを明乃も感じていた。
きっと、明乃の想像もつかないような、何かがあるのだろう。だが今はそれを聞きたくなかった。東雲との関係が。水守と壱川の関係が。そして……木野宮と宮山まで巻き込む事態になることが。
今はただ、恐ろしくて仕方がなかった。


○○○


壱川遵は自宅で椅子に身体を沈めていた。どうにも身体が重く、上手く動けない。飯を食わなければと思うのにそれに至れないのは、考え事がいつまで経っても結論を生まないからだろうか。
溜息を吐いてから壁にかかっているコルクボードを見る。走り書きのメモや名刺の挟まれたそれの真ん中には、古びた一枚の写真があった。昼間には太陽の当たる位置だからか、少しだけ色褪せている。
写真の中には学生時代の自分と、名探偵として持て囃されていた男の姿がある。今では伝説とすら呼ばれるような、この界隈なら誰もが知っている男であった。
名を、木野宮と言う。
彼との思い出に浸る暇もなく、壱川はまた溜息を吐いた。東雲の言葉が頭から離れない。相棒を思うなら、なんてクサい台詞だと思うが今は笑っていられる状況ですらない。
相棒……水守綾を思う。彼女は一般人だった。偶然で探偵に仕立て上げられたただの一般人。現に死人まで出そうになった事件に、彼女を巻き込むのは筋が通っていない。それでは本末転倒だとわかっている。
わかっているのだ。
「綾ちゃん……」
それでも。壱川は今はただ……もう少しと、そう思うばかりだった。